Ⅵ.専門職の日常

2017年5月10日 (水)

体重減が止まらない

ダイエットもしていないのに去年から2kg減である。貧困ラインぎりぎりの生活で食費を削っているからか。

もう近ごろはなんだかんだ値上げの嵐で、上がらないのは給料だけ。食べ物、トイレットペーパーなどの生活必需品、光熱費等々…。この社会は私に死ねと言っているのか?と疑問に思うのは今に始まったことではないが。

食べ物は極限まで切りつめ、間食などもってのほか。冷暖房は耐えられるとこまで我慢する。風呂はもちろん毎日入るが、その代わりトイレの回数を少なくし、できるだけ外出先でするようにする…とか、そういうことを実践している。



…こういうことをなぜここで書くかというと、辛酸をなめまくった苦すぎる経験を記し、いつか立派になったとき読み返して、「これがオマエの原点だ」と初心を忘れないためである。






GWはなんだかじっとしていることができず、無駄にそこらをうろちょろ歩き回って最終日にぶっ倒れた。起きようとするのに起きられず、うっかり昼まで寝坊してしまった。ありゃ生まれて初めての体験だったな。


人の声を聴くのは得意だが、自分の声を聴くのは苦手である。「もっと自分を出していいのよ」と言われるが、本当の自分を出したら確実にひねりつぶされる。そういう環境にいるのである。

つらいんだな、嫌なんだな、なんてふっと立ち止まったら悲しくなりそうで。私のこの辛酸なめつくし現状悪化の闇はいつまで続くのだろう。ネバーエンディングストーリ―なのか…?





あれが嫌だこれが嫌だと排除していったら何もなくなってしまう。どこかで折り合いをつけて受け入れなければやっていけない。

先日、職場の人たちが上司の悪口を言っているのに出くわしたが、私に言わせりゃアンタたちも似たようなものですけど。むしろあの人たちにボロクソ言われている上司がちょっとかわいそうになってきた。

他人の悪口に同調するって怖いよな。変な仲間意識みたいなのができて自由に動けなくなる。私はそういうのが嫌いだから誰の悪口も言わない。あいつなんか死ねばいいとこっそり思うだけである。







…結局、日常生活も心の中も荒みまくっている。お腹へった。


どうしても低血糖症状が出るのよねぇ。マジな話、コンビニのトイレで1時間ぶっ倒れたこともある。救急車を呼ばれるのが恥ずかしかったので自力で歩いて帰ったが。

職場で症状が出ちまったときは、休憩室にある飴を舐めながら仕事したり…。人ひとりの身体を維持していくってほんと大変。低燃費で生きていけたらいいのに。





それでも将来やりたいこと、夢や理想のために奔走する。


誰も言ってくれないから、「がんばれ」。

いつか立派になってこの記事を読み返そうな。



2017年4月22日 (土)

どうして雨の日に傘

休憩時間、職場の人たちが「どうしてパワハラが原因で自殺するんだろうね。死ぬぐらいなら辞めればいいのに」という話をしていた。




これは私に向けられた発言ではない。(と思う)

ただ、聞いていた私は複雑な思いになった。



「○○ぐらいで」というのは被害に遭ったことがない人の詭弁である。パワハラのほかにも「いじめぐらいで」「DVぐらいで」という言葉がある。

これを他人に言うならまだいい。私の考えでは、自分で自分にそう言っている人が自ら命を絶ってしまいがちである。


自分に「○○ぐらいで」と言うほどつらいものはない。それで奮い立てる人は別として、自分で自分を責めたり追い込んだりしていいことは何もありません。十中八九なにかの病気になります。

自分でもそう思っているのに、他人から同じことを言われた日にゃ、もう生きる気力なんか微塵も湧いてこない。「パワハラぐらいで悩んでいる自分は弱い人間なんだ。やっぱり死のう」ってなりもする。


私は実際に自殺を企てたことはないが、意見を求められたので「心的苦痛が死ぬよりつらくなったら人は自殺するんじゃないですか」と答えた。これが正しいかどうかは別にして、そう思うのは様々な人の教えがあるからである。










我々の仕事は、相手の重荷を一緒に支え、負担を抱えたままわずかでも楽に前に進めるよう援助することだと思いなさい。…というのは学生時代、教師から言われた言葉である。

我々にできることはせいぜい、人が抱える困難や負担をわずかに軽くすることだけである。それをゼロにすることも肩代わりすることもできない。せいぜい一緒に支える努力をする程度のものである。


私の根源にあるのは今でもこの教えである。

人が自殺企図するほどの苦しみを失くすことは絶対にできない。わずかでもその人の苦しみを共有し、負担を軽くする努力をしなさい。それが自分の信念としてストンと腑に落ちた。



また、「どんなに裕福で恵まれた環境にいても人は自殺する」と、かつて未遂を経験した人に言われたことがある。

今の世の中は、傍若無人で自分本位で非常識な人ほど楽に生きられる社会である。心根が優しく常識的な人ほど損をしやすく、また生きるのが苦痛で仕方なかったりする。それがどんなに(他人の目から見て)恵まれた環境にいたとしても。






まがりなりにもそういう言葉を胸に留めている人間には、「なぜパワハラぐらいで自殺するのか」という質問自体よくわからない。そんなもん、死ぬよりつらいことがあるからに決まっているでしょう。

「逃げればいい」「辞めればいい」なんてのは健康でノープロブレムな人が判断することであり、本気で自殺企図する人間はそんな悠長なことを考えている暇はない。頭の中は「今日ここで死ねば明日は苦しまなくていい」に尽きるのではないかと思う。




自分が死ぬことによって様々な苦痛から解き放たれる想像。これがバラ色に見えるとき、人はおそらく死を選ぶのだろう。

もうあそこに行かなくていい。上司に罵倒されない。先輩に馬鹿にされない。いじめられない。親に隠さなくていい。独りで苦しまなくていい。…なんて世界が目の前にちらついたとき、誘惑に負けるとついフラフラと電車に飛び込みたくなってしまいます。





自殺企図はしたことないけど、ぶっちゃけ希死念慮は経験ある。なので気持ちはよくわかる。今の苦痛から逃れるためなら死でもなんでも選びたくなるよねぇ。


本気で追いつめられている人に「逃げる」「辞める」の選択肢はない。だから周りが強引に辞めさせるとか、苦痛を生じさせている環境をぶっ壊すとか、そういうことをしなければ永遠に救われないと思う。

ベテランになると我々でも実際に環境を変える計画を練ったり、それを実行に移したりするのだが、アマチュアの私にはまだ自信がない。


情けない。






とりあえず仕事柄、私は他者を援助する立場にあるが、実は少しだけ援助される側の要素も入っていると思う。正直ギリギリのところにいる気がする。

だからすごく気持ちがわかるし、共感もできる。それだけにうっかり入り込みすぎると危ない。「自分は専門職の人だから」と割り切って仕事しなければならないこともある。共感はいいけど同情は絶対ダメ。





職場の人たちも同じ援助者でありながら、「どうしてパワハラで…」という発言が出てくるのか疑問である。当事者にとっては「どうして雨の日に傘を差すんですか」レベルの話なのに。


専門職としては限りなく未熟だが、少なくとも人の苦痛がわかる人間でありたい。援助者と被援助者の間をさまよっているぐらいが一番いい気がする。どっちの意見もわかるし、両者の立場に立って話ができるから。









今ある苦しみから解き放たれるために、明日起きて職場が爆破されてなくなっていればいいのに、と願うことは頻繁にある。

つらい現実にいじめられまくっている全国の皆さん、ここにもひとり仲間がいます。職場の焼失や嫌がらせをしてくる人の失踪等、様々なことを願いながら眠りに就きましょう。


おやすみなさい。



2017年3月 3日 (金)

黙るは得だが腹が立つ

根がネガティブのせいか、ちょっとでもマトモなことがあるとすぐ「悪いことが起きる前触れでは?」と思ってしまう。不運にまみれていた方が自分らしいというか、かなりねじ曲がった性格と自覚している。


…それでもいいことばかりじゃないけどね。基本悪いことばかりだよ。底なしの逆境と現状悪化の中に生きている。それが自分。



主に仕事関係で猛烈にイライラする。怒っても仕方ないとわかっているから我慢するけど、たま~に発散しなきゃやってられん。小声で「死ね」を連呼するとちょっとだけ気が落ち着く。

あくまでちょっとだけな。








……大体さぁ。





「私って身体が弱いからぁ、これ以上負担をかけるとダメになっちゃうのぉ」

なんてことを口に出して言う人、生まれて初めて見た。まさに未知との遭遇



発言者は私より年上の人(♀)。

普段のちょっとした荷物運びとか、年末の大掃除すら絶対やろうとしない。「身体が弱い」ってなに? 私だって両目を網膜剥離で手術してるから、日常的に重い物を持つなとドクターストップがかかっている。なのに、荷物運びも大掃除もフツーにやらされてますけど。

そのくせ私の失敗やミスはうっとうしいぐらい指摘してくる。自分は何もしないくせに。こっちが仕事していても優雅にコーヒーを飲んでいる。ああくそ、煩わしい。恨めしい。





あと、別の人だけど、自分がなんでも一番でないと気が済まない人もいる。というか、アレは自分が一番だと完全に思い込んでいる。やたら偉そうに説教してきたり、諭してきたり、わざわざ丁寧に解説してくれたりする。

でも、その大半は「…イヤ、知ってますけど?」という内容。私は寛容だからそんなことは言わない。初めて聞きました的な顔をしてあげる。寛容だから。実年齢は相手の方が上なんだけど。







まったく…。どいつもこいつも私を相手にくだらねぇリビドーを埋めないでもらいたい。テニスの壁打ちと同じでまともな反応は返ってこないと思え。

某知人によると、私の長所は「黙る」ところらしい。怒ると黙る。口を閉じる。そのせいで相手に調子に乗られる(言い負かしたと思われる)。オマエが黙れ…。


まぁ、専門職の人間としては問題ない。むしろプラスかもしれない。ただ組織人としては苦労する。阿呆どもと喧嘩して何になる?とはっきり口に出せたら楽なのだが、私にも一応理性というものがありますので、なかなかそうはいかん。




職場の連中と馴れ合う気はさらさらないし、仕事関係の話だけ通じていればいいのだが、「黙る」が基本になるとどんどん何も言わなくなる。いいことも悪いことも。昨日あったことも来週あることも。まともな日常会話をしなくなる。

もちろん必要最低限の会話はしますよ。組織人として当然やるべきことはやります。ただ、それ以外の会話(俗に言う雑談)はしない。昨日見たテレビの話とか、今日作る晩ごはんの話とか。昔はもうちょっとしていた気がするが、最近はめっきりしなくなった。




理由は簡単だ。何か話そうものなら、それについてのウンチクを語られるか、あるいは説教されるか、間違いを指摘される。何を話しても必ずこのうちのどれかになる。まともに会話しようって気にもならねぇだろ。

どうせ話しても無駄だ。楽しくないと思うんだよ。相手が私だからまだいい。だが、これがクライエントだったらどうするの? 話しても無駄だと思わせるような態度を取るなよ。あんたらこれでも専門家だろ?


どんなにうまくオンオフ切り替えたって土壇場では素が出ます。常日頃から「この人に話したら気持ちが楽」と思わせるような生き方をしろよと思う。ハッキリ言うけど、あの人たちに話をしたってなんの実りもない。無意味。無感動。

私はともかく、患者さんやクライエントにこういう思いをさせているとしたら、あの人たちは専門家としてまるきり失格である。





カウンセラーはクライエントを映す鏡になれ、というのは先人の教えである。私も常にそうなれるよう努力しているが、職場の阿呆どもを映す鏡には死んでもなれない。


おもいっきりリフレクション(反射)してやりてぇ。


2017年1月27日 (金)

為にはならず

去年8月、「現状悪化の底が見えない」と呟いてから約半年。


ただでさえ少ない給料がさらに減らされ、上司に「こっちはシビアな経営をやっているんだ。お前の給料に回す余裕はない」などと罵られ、他職種の先輩に「民間資格のくせに」「国家資格は格が違う」と何事によらず馬鹿にされ、2016年はいいことなんかひとつもなかった。

なので、2017年はもうちょっとマシな年になりますように、と願っていた。



…のだが、どうも願いは届かなかったらしい。

わしの現状悪化はマジで底がないようだ。







先と言えば先の話なのだが、平成29年4月から自分が加入している社会保険料が上がるのである。それも月額2000円も。

たかが2000円、などと思ってはいけない。私がこれまでの人生で最も節約していたころ、2000円というのは10日分の食費だった。つまりこの時代の生活がまだ続いていたとすると、月2000円さっぴかれる=毎月10日間絶食に等しい。さすがに今はそんなことはなくなったが、生活が苦しくなることには変わりない。




なぜ上がるかというと、理由は言わずもがな、高齢化社会によって膨れ上がる社会保障費の削減である。わしも最近頑張って勉強しているので、主に医療と年金の分野でバカほど金が必要なことはわかっている。しかし、国庫からの支出を抑えるため、我ら労働者の給料から保険料を徴収して賄おうとしているわけである。


…で、ついでにわしの食費も削減か。ただでさえカツカツの生活をしているのに、月額2000円(単純計算で年間24000円)もさっぴかれたら生命にかかわる。

私は3ヶ月に1度、眼科の通院で3000~5000円(3割負担)ほど支払う。これが家計の中で一番大きな支出であり、それでいて何があっても外せないものである。これをケチったら(最悪の場合)失明する。なので仕方なく食費や被服費を削減し、頑張って節約して通院しているのである。



いっそのこと失明して、障害年金や手帳をもらった方が楽に生活できるのではないか…と考えたこともある。でも、なんかそういうのはおかしいし、眼のことでたくさん励ましをくれた人たちに悪いし、すでに緑内障で視野欠損している母を冒涜するような行為だし…。今のところ実行してはいない。



今日、大きな交差点の前でそんなことを考えていたらなんだか悲しくなって、涙がこぼれないように上を向いて歩いた。そしたら本当にこぼれなかった。永六輔さんってすごいな。










…こんな泣き言ばかりこぼしていると、「もっと給料がいい別の仕事に移ればいい」「努力しないから貧乏なんだ」と言われる。去年の8月あたりから騒いでいるのも、「現状悪化はオマエのせいだろ。他人のせいにするな」と責任転嫁を指摘される。



ま、確かに責任転嫁はあるかもね。努力も嫌いだし。


ただ、今の仕事はほんと好きでやってるって感じで、上司や先輩に「民間資格のくせに」とボロクソに言われても辞める気にはならない。自分にとってああいう連中はバクテリア以下の下等生物に思えるため、奴らに何を言われようと黙っていられる。

自分が一介の専門職として日ごろ顔を合わせている人(平たく言うと「患者さん」)、彼らにさえ迷惑をかけていなければ問題ないと思う。別に礼を言われるためにやっているのではないが、何かの拍子に「××さんがいてくれてよかった」と言ってもらえたらやはり嬉しくなる。そんなこと職場の身内に言われたって全然嬉しくない。誰かに満足してもらってこその専門職だと信じている。


それでも物理的な給料の手取りが下がる一方なのは、専門職としての私の仕事が評価されていないからだろう。それがまっとうであるかどうかは知らない。私の評価なんてどうせ他人が勝手につけるものであり、いくらでもバイアスをかけて捻じ曲げられるものである。



「もっと評価してもらえるところに行けばいいではないか」とも言われる。世間にはたぶんもっとまともな職場があって、まっとうな評価を受けてそれなりの給料を得ている人は大勢いるだろう。

だが、それを選択しないということは、私は自分で現状悪化の未来を選んでいるのでしょう。信念なんて言ったら嘘くさいと思われるかもしれないが、他人の評価も物理的な給料も本当はいらない。



批判を覚悟で言うならば、
私という人間の強みは、他人の悲しみや苦しみに胸を痛めることができること、誰のどんな評価にも関係なく目の前の人に無条件に親身になれること、それに尽きると考えている。

それを活かせる職業が今の専門職だった。万が一にも患者さんにとって致命的なミスを犯さない限り、民間資格だなんだと文句をつけられながらもめげずに続けていかねばならん。私は自分のために仕事をしているのではない。必要とする人のために自分はここにいるのだと日ごろから言い聞かせている。





こんな人間でも、いや、こんな人間だからこそ、底が見えない現状悪化の闇に苦しめられる。どんなに足掻いてもなんやかんやと邪魔が入り、自分の生活を持たせるのが精いっぱいになる。なんかよくわからんけど、たぶんそういうものなのでしょう。多少のプライドと向上心がなければ人は出世できません。






ひとの為、誰かの為と励めども、ひとは己の為にはならず。


そんなこんなで、また4月から生活が苦しくなること確定である。現状悪化は誰のせいでもない、自分のせいです。それが原因で精神的に追い込まれることも多々あるが、自覚しているだけマシではないかと思う。なので弱音も泣き言も許してください。


私は真面目に年金も保険料も納めているが、自分が老年になったときどうなるか想像するだけで背筋が凍る。80歳でも現役でいるような身体の持たせ方をしなければ生きていけない。あるいは50歳ぐらいで寿命を終える努力?をするかだろうな。


2016年8月11日 (木)

ヤケクソな盆休み

ま、ヤケクソにもなるわいなーという今日このごろ。

出来事を羅列するだけでも疲れる。ほんと馬鹿馬鹿しいったらないわ。



以前、私のようなサスペンスドラマを好んで見る人は犯罪者になりやすいと言われたことがあるが、あれは逆だと思う。サスペンスをよく見る人ほど、犯罪がいかに割に合わない行為かよくわかっている。どんなに頭脳を絞って完全犯罪を目論んでも、大抵の場合はすぐ捕まる。

せっかく目的を達成したって捕まったら意味ないじゃん。そういう自制心(?)が働くから、サスペンスドラマをよく見る人、特に犯人の立場で物事を考えてしまう人はおそらく犯罪には走らない。


損か得かと言われたら損だと思うよ。大抵の場合、人間の脳が考えつく犯罪はあっさり論破されて逮捕されるから。





…そうでもなければ今ごろ傷害事件に発展しているぞ! 私の憤り&怒りはとっくの昔に沸点に達している。実際に手を出さないだけましだと思え!







ううむ、もし私が何かやらかしたらこのブログも捜査されるんだろうな…。





幸運にも、何かしでかす前にうまいこと盆休みに入ったので、この間に消化できたらいいなぁと思う。半ばヤケクソになって予定を組んだので、に行った翌日にに行くことになっている。大丈夫か、自分…。


先月の金魚の逝去をはじめ、これまでのところいくつかの別れがあった。悲しくて寂しくて、なぜ私はいつも残されるのだろうと悲嘆に暮れてしまう。まぁ、動物と比べると人間の方が寿命が長いのは当たり前だけど。相手に先立たれないためにはゾウガメとか飼わなきゃ駄目だろうか。


なんかなぁ…。近ごろの私は失うものばかりで、よくない疫病神でも憑いてんじゃないかって思う。すでに最下層レベルのこの現状、もうこれ以上悪くはならないだろうと高を括っていたら、まだ底があったらしい。自分なりに何か変えようと努力しても空回りばかりする。

金魚たちの死といい、職場での待遇悪化といい、イライラが最高潮に達した自分の精神状態といい、私は一体どこまで落ちていくのやら。最下層まで追い込まれたことは何度もあるが、大人になってからはこれが初めてかもしれない。山やら海やら自然の産物を見て心を癒さなきゃやってられないよ。







…で、ヤケクソになった今なら勢いで行けるかと思い、今日は入院中の祖父を見舞ってきた。自分の祖父でありながら、ようやくといったところか。もはや自分でご飯さえ食べられず、痩せさばらえて骨と皮になった祖父を見たくないという気持ちから、ずっとお見舞いを先延ばしにしていたのである。


気を強く持てと自分に喝を入れて行ったのに、やっぱり実際に目にすると涙が出てきて止まらなかった。目の前にあったのは、生きているのか死んでいるのか釈然としない、骸骨のように痩せこけた祖父の姿である。「××やで。遅くなったけど来たで」と声をかけても反応しない。祖父の元気だったころを憶えている分、見ているのが本当につらかった。


私が誰であるか、それがわかっているかどうかも不明である。せっかく来たのにごめんなぁ、と言いながら、ベッドサイドで恥も外聞もなく泣いてしまった。病室には他の患者さんも看護師さんもいるのに、あんな人前で泣いたのは初めてかもしれない。




それがヒトであれ、金魚であれ、生きるか死ぬかはごく単純である。一度死んだものは二度と戻ってこない。呼びかければ戻ってくるのではないか、祈ればすべて最初からやり直しになるのではないか、生き物の死に立ち会うたびに思ってしまう。でも、それは絶対にない。


だから、あとで後悔するぐらいなら自分にできることを精いっぱいやった方がいいと思う。今はまだ医学の力で命を繋ぎとめているが、祖父がもう長くないことは私にもわかる。その姿を見てたとえ涙が止まらなくてむせび泣いてしまっても、祖父に私のことがわからなくなっても、「あのとき行っとけばよかった」と思うのだけは絶対に嫌だ。


あの金魚たちの死に意味があるとすれば、ずっとお見舞いを先延ばしにしていた意気地なしの私にそう決意させてくれたことかな。

去り際に、「私の代わりに置いていくわ」とピカチュウのぬいぐるみを枕元に置いてきた。まぁちょっとしたジョークだが、子どものころの私といえばポケモンだから、あれを見れば祖父も何か思い出すかもしれないし。





お盆に見送る魂がこれ以上増えませんように、と毎年願っているんだがな。やっぱりどうしても増える一方だよな。命がなくなるときは本当に一瞬だから、みんな大切にしてほしいと心から願う。



私はもうヤケクソだからいいのよ。

状況は悪くなる一方、現状悪化の底が見えない。(名言確定)



ここからどこまで転げ落ちるのやら。とりあえず勇気を振り絞って祖父に会いにいけたのはよかった。あとは山、海と自然を満喫したいと思う。それからのことはまた今度考えよう。



2016年7月19日 (火)

腹立って腹立って

あまりに~も腹が立つ出来事が相次ぎ、ここに書くのもアホらしくて1ヶ月ほど放ったらかしにしてしまった。




純粋性が欠如した実習生の話は前に書いたと思うけど、あの一件で激しく非難されたのである。なぜかこの私が。(同情から一転してどういうことだ…)

あの人たちはホントに一貫性がないというか、記憶力大丈夫か?っていうぐらい今日と明日の態度が違う。こんなのでよく専門家を名乗っていられるよなぁ。



…なんてボロクソに書いているのは、本当にあまりにも腹が立ったからである。実習生の態度が悪い。それは私にも嫌ほどわかる。いくら指導しても聞いてくんない。なので上司に相談し、大学に一報を入れることにした。

相手は目上の人間だから、失礼に当たらないよう気を付けつつ言いたいことは言った。事前に上司の了解も得たし、手順になんら不手際はなかった。ここまではいい。


問題は、上司および多職種の先輩からの(私に対する)嫌味の応酬だ。実習生の態度に一番辟易し、やむをいえず本当にしぶしぶ嫌々大学に電話をかけ、指導担当の教員にクレームを入れたのは私だ。にもかかわらず、というかだからこそ、彼らは私に文句をつけるのである。いや、この場合、私ではなく私が持つ資格か。




今回一番むかついたのは、「これだから民間資格は駄目なんだよね(笑)」という一言である。

私以外の人たちは全員が国家資格保有者。だから何なんですか?と私などは言いたくなってしまうが、彼らの中では国家資格=偉い、民間資格=偉くないという方程式が成り立っているのだろう。



これだから民間資格は駄目なんだよね。…と。



それもひとりの人じゃなく、国家資格保有者が寄ってたかって「私は正論を吐いてます」的な顔で言うわけである。「ねー!」「それなー!」みたいな。そういうノリってほんとキモい。


「自分は国家資格を取るためにこんな努力をした」とか、

「それに比べて民間資格は楽に取れるからいいよね」とか、

「苦労しなくても誰でもなれる」とか、

「資格の実態がおかしい」とか、

「それについて協会に文句を言ってこい」とか、


そういうことをこの1ヶ月ほどずっと言われているわけである。自分がまだ学生だったころ、大学の先生に「そんなバイトは障害者でもできる」と言われたことがあるが、アレに匹敵するほど腹の立つ出来事だった。一体何を言っているのかね、このポンコツどもは。




私の仕事ぶりが悪くて言うならわかる。だが、このたび言われているのは私ではなく学生である。しかし、その言葉を聞かされるのは私である。


私もまだ資格取りたてのホヤホヤで、やっと2年目に突入したド新人である。だが、それを肝に銘じて真剣に仕事に向き合い、失敗したときは謝り、そのたびにもっと成長せねばと奮起し、自分なりに頑張ってきたつもりである。私は自分の資格に誇りを持っているし、職業を聞かれたとき「臨床心理士です」と答えられるのはとても嬉しい。


もちろんそれでも不充分なところはあるし、何十年のキャリアがあるベテランには敵わない。だからその分の知識を学会や研修会で補い、必死に専門家として立派になろうと努めてきた。





なので、今回そう言われて無性に腹立たしく、そして悔しくなった。そう言われて言い返せない自分にも腹が立ったけど、「くだらない理想を持つな」と頭ごなしに言われたのもショックだった。

実践の場では理想など通用しない。それはわかっている。だが…本当に理想を持つことは悪いのか? 私は心理士としてこうありたい、自分という人間を使って患者さんやクライエントさんが成長し、少しでも楽に人生の道のりを歩んでいく姿を見届けたい。そう思うのは間違っているのか?


「私たちは専門家として「人」に向き合っているんだよ!」
という言葉がただの理想で、そんなもん持つなと命じられるならば、私はもうマトモに仕事をする気にならない。

こういうことを日々言われ続け、辞職もちらっと考えたけど、それでも自分のことをわずかでも慕ってくれる患者さんやクライエントさんがいる限り、みんなを裏切って急にいなくなるのは卑怯な気がしてやめた。私はカネやプライドのために仕事をしているんじゃない。それこそ理想と言われたらそれまでだけど、私は微力ながら誰かの役に立ちたいと思ってこの職を選んだのである。





Drも、NSも、PSWも、Thも、そして患者さんも、ぜ~んぶ「人」です。人が人に向き合っているのです。民間資格だから、国家資格だから、立場が偉いから、偉くないから、そんなもんどうだっていい。我々が一番真剣に向き合い、その成長と現状の改善を最も喜ばねばならないのは、目の前にいる患者さんやクライエントさんなのである。


言ってしまえば、そのためなら立場が悪くなろうが、給料が下がろうが、嫌味を言われようが、多少我慢しなければならないこともある。それなのに、上司の関心事とくれば「収入」であり、十八番は「日給分の働きをしろ」である。全然患者さんやクライエントさんのことを考えていない。毎日の収入がどうであるか、いかに安い給料でスタッフを雇えるかしか関心がないのである。





バカタレだと思いますよ。全員。





それが2年目に突入してようやくわかった。

もしかしたら自分もその一員なのかもしれないが、それでもあの場所に私の存在があって助かる人がひとりでもいるならば、私があそこにいること、資格を持っていることの価値は充分あると思う。



前に一度、スタッフの日給がどうの、毎日の収入がどうのとこだわる上司に文句を言ったことがある。…もちろん怒られましたけども、私は唯々諾々と従うだけの他のスタッフとは違う。おそらく面と向かって「辞めろ」と言われるまで居続けるでしょう。この仕事は自分の都合ばかり優先してはいけない。そう思うからである。





ぶん殴っていいのならそうしますけどね。

しかし、実質的な危害を加えると訴えられる気がするので、今のところはトイレなどで「このバカタレが!」と叫ぶぐらいに留めておきたいと思います。




いやー、それにしても腹立つわ。






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2016年6月19日 (日)

純粋性の欠如…かなぁ

「下っ端根性」の続きといえば続きなんだけども…。



「実習生に対する態度が丁寧すぎる」と怒られて約3週間。

実習生の態度があまりに悪いため、「あんな丁寧に教えてるのに裏切るのは許せない」となぜか一転して私が同情されている。(一体どういうことだ…)



私に言わせれば、実習生の態度が悪いという以前に、この職業に向いていないように思う。身内に対する態度が悪かったって、相手の利益になるように動けていたらそれでいいのである。ちゃんと結果は出しているのに、働いている者同士で「あいつが気に入らん」なんて言い合ったって不毛なだけじゃん。

しかし、誰かに悪影響を与えかねないのは問題だと思う。何度も言うけど、身内に嫌われるぐらいなら全然いいんです。だが、あの人は一番大事にしなきゃいけないことが疎かになっている。自分で言うのもなんだが、私が「向いてない」なんて思うのはよっぽどですよ。






我々の学問の概念に「純粋性」というのがある。


内面にある自分と、外に出している自分が一致していること。包み隠さず、ありのままの自分で相手に接すること。そういうのが「純粋性」(自己一致とも)である。

自分の考え方の癖、強み、弱み、心の動きなど、相手と接しながら常にそれを理解し、あるがままに受け止める。「自分は今どういうことを考えている?」「自分はなぜそう思ったのだろう?」など、大抵の専門家は意識しなくても常にそう考えているものです。身内同士でひねくれた物言いをする人もいるけど、患者さんやクライエントさんに対しては誠実であるというのが基本中の基本。


我々は相手の心を映す鏡でなければならない。鏡が歪んでいればそこに映る人の姿も当然歪んで見える。自分が誠実でなければ相手も誠実になってくれない。だから、どういう仕事に就くのであれ、この職種はとことん純粋で誠実で真っ正直な人間であることが重要なのである。


…なんだか難しいことを言っている気がしますが、要するに自分の弱みを失くせというわけではなく、弱くてもいいからそれに気付いておけということです。で、それを悪い意味で利用するなということです。それを使って人を騙したり、思い通りに動かしたり、同情を買ったり、そういうことをする人は…はっきり言いますが、この職業に向いていません。




何が怖いって、そういう人が専門家になったときが一番怖いのよ。


そりゃ、誰だって人間なんだから弱みはたくさんあるよ。私だって考え方がひたすらネガティブで、誰かが影響を受けて真似しませんようにと願っている。だが、それを病的に引きずったり、もしくはうまく利用して人を騙すようなことは絶対してはいけない。皆さん、そんな人にカウンセリングを受けたいと思いますか?

身内でトラブルを起こすぐらいならいいよ…。それで済むなら全然マシ。ただ、それが誰かに及ぶとなると…やばいと思うけどなぁ…。




注意されたら謝罪する、失敗したら反省する、目上の人には丁寧に接する、どうしてこういうアタリマエのことができないのかね? 適度な緊張感、意欲、一生懸命さ、そういうものが丸ごと欠けてるんだよねぇ。

注意すると泣き出し、謝罪は一切せず言い訳の応酬、そして終了時間になるとケロッとした顔で帰っていく。


…はっ、もしやこれが今どきの若者の傾向なのか?



仮にも専門家のタマゴで、大学院まで行ってるんだし、せめて「どうすればいいかわかりません!」とパニックに陥るぐらいでちょうどいいと思うんだよね。私自身そうだったし。専門職は適度にパニックに陥りながら学んでいくものだと思う。それが一生懸命ってことだ。


職場の人には「向いてないと思います」と自分の意向は伝えているのだが、それを本人なり向こうの教員に伝えるのはなぁ…。一体どう言えばいいのやら。しかし、あの人が専門家になっちゃったら困るのは周囲の人だし…。




普通の職業ならまだいい。


だが、わしらはこれでも専門家の端くれなんだからな?

相手の鏡となる、人の話を聞く、援助する、そういうことをしていかなければならない職業なんだからな。なんだかよくわからないけど自分ひとりで傷付いて、その傷跡を他人に見せてほくそ笑んでいる場合ではない。…ってことを残りの期間で教えてやれたらいいけど、そもそも聞く耳を持ってくれるかどうか。


どうにも胃が痛いこのごろです。



2016年5月29日 (日)

下っ端根性

職場に実習生が来て私が担当しているのだが、なんかよくわからんけど「教え方が丁寧すぎる」と怒られた。

放置して怒られるならともかく、丁寧すぎて怒られるってどういうこと? 「そこまで丁寧にしなくていい」「立場がおかしい」「気を遣いすぎ」…うんぬんかんぬん、要するに威厳がないということか。



何年経っても下っ端根性が抜けない私は、頼まれたらどんな雑用も引き受けるし、自分より下の立場の人にも気を遣う。そうなったのは自分の上が基本放置プレイで、満足に指導してくれない人ばかりだったからだと思う。

自分がそういう憂き目にあった分だけ、後輩には丁寧に指導しなきゃと気負いすぎるのだろう。扱いが丁寧すぎて怒られるという事態に発展してしまった。「そこまでやらなくていいでしょ」って半笑いで言われるけど、なんかもっと別の言い方があるだろうと思う。


よくわからんけど、相手の自主性を育てる指導みたいなのをした方がいいのだろうか。これまで誰かに指導をしたことがないから加減がわからん。「自分が経験したことをそのままやればいい」と言われても、放ったらかしにされた経験しかないから困るんだよ。だからって丁寧にやりすぎると怒られるし…。どうすりゃいいっつうんだよ…。






ちなみに前回の記事に書いた人のことだが、「不当解雇だ」と職場を訴えることにしたらしい。私はもう知らん…。何がどうなろうがもうどうでもいい…。


知り合いの社労士に聞いたんだが、試用期間中に「こいつは使えない」と思った場合、期間満了を待って雇い止めにするか、解雇の1ヶ月前に通知するか、急な場合は1ヶ月分の給料を支払うか、そうしないと不当解雇にあたるらしい。それとも無理やりにでも自主退職に追い込むかだ。

社労士いわく、上記のような手順を踏まなかった場合、裁判になれば十中八九負ける。それで100~200万持っていかれるのは当たり前。金目当てにわざと不当解雇を誘発する輩もいるらしい。前回の記事に書いた人がそうであるとは限らないが…。なんだか話がキナ臭くなってきた。





人間の金に対する執着は恐ろしい。パナマ文書や舛添知事も然り、人の理性を狂わせるのはいつも金だ。

だが、ウルグアイのムヒカ大統領も言っているではないか。「貧乏な人」とは金がなく物を持っていない人のことではなく、いくら金や物があっても満足しない人のことだと。私はいつも自分を「貧困労働者」などと比喩するが、金にも物にもまるで執着がない。本物の幸せは金の力では手に入らないと思っている。だから銀行口座も部屋のクローゼットも気の毒なほどスカスカなのだろう。





不当解雇されたら訴えるのは労働者の権利なんだろうが、私なら「自分はこの程度の価値しかなかったんだ」と受け止めて次の職場を探すけどな。ここでもやはり下っ端根性が発揮されているのかもしれないが、先方に雇ってもらっている以上、その待遇にあれこれ不満を述べるのは贅沢な気がする。だって、生きていられるだけましではないか。


自分がいつ死ぬかわからんみたいな状況に追い込まれてみればわかる。生きていることがどんなに幸福か。今日寝て、明日目覚めることがどんなに素晴らしい出来事か。自分の人生に半年後や一年後という概念が存在することがどんなに驚くべきことか…。


そういう風に考えるとどんな悩みも贅沢に思えてくる。金がない、食糧がない、服がない、靴がない、別にそんなもんなくても気にならない。考え方が卑屈とも言うが、こうして生きていられるだけめっけもんだよなぁ。





これから自分がどうなるかさっぱりわからん。丁寧さがよくないだの、不当解雇がどうだの、短期間にいろいろありすぎて頭がついていっていない。これ以上何かあるとストレスでハゲるかもしれない。ツルツルになる夢とかたまに見るし…。


6~7月は受難の季節。眼科の通院日もあるし気が抜けない。

どうかハゲませんように。







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2016年5月20日 (金)

明日は我が身か…

今年の4月から入った同い年の新人が解雇されるそうだ。勤務期間(試用期間っていうの?)はわずか2ヶ月。私もれっきとした雇われ人ながら、「解雇」という単語を間近で聞いたのは初めてだった。


理由はあっけらかんと「仕事ができないから」だそうだ。私とその人は仕事内容が別で、一緒に働いた経験はほとんどない。せいぜい会えば挨拶を交わす程度で、本当に仕事ができないかどうかは知らない。それでも自分と同い年だからだろう、解雇されると聞いて妙に胸が騒いだ。




私は今の職に落ち着くまでいろんなバイトを経験してきたが、幸運にも解雇されたことは一度もない。いつもこっちから辞意を伝えていた。だから、先方から解雇を言い渡される人の気持ちはわからない。一生懸命働いていたのに、「今月いっぱいで辞めてくれ」と言われたときの気持ちは一体どんなものだろう。


私も仕事を憶えるのが遅い方で、よくこれまでクビを言い渡されずに済んだと思う。ごく簡単な言葉で表現すると、私は単純に頭が悪い。専門科目はなんとか身体で憶えたが、それ以外の学力やスキルは人並み以下。中学生時代の偏差値とか40なかったからね。そんな人間がよくここまでやってこれたものだと思う。

しかし、致命的に頭が悪い人間は、引き換えに要領がよくなる。愛想笑いがうまかったり、上司をヨイショするのがうまかったりする。反面、やたら人の顔色を窺いすぎたり、空気を読みすぎるせいで余計ネガティブになる。私がこういう人になったのは、頭が悪いゆえのスキルを発達させたお陰だと思う。



その同い年の人が「仕事ができない」とみなされた理由は、ズバリ要領が悪いことである。そう大人数の職場ではないが、空気を読んで要領よく動かないと仕事にならないこともある。たとえば任された仕事に優先順位をつけるとか。私も慣れるのに相当苦労した。今やらなくてもいい仕事を始めちゃって叱られることも多かったし。

ほんの2ヶ月足らずの試用期間で本当にその人の力量がわかんのか? 私は雇い主でもなんでもないが、もうちょっと猶予をあげてもよかったのではないかと思う。もう少し時間があればちゃんと仕事を憶えて一人前になれたのではないかなぁ。


本当に仕事ができないのと、時間がかかってもできるようになるのとでは違う。私は自分が後者だと信じているので、もうちょっと時間をくださればやってみせます!と事あるごとに言っている。私の場合、自分の力量に加えて精神的な余裕ができるまでに時間がかかる。よしやるぞ!とか、自分ならできる!と思えるようになるまで、(先方には申し訳ないが)猶予をお願いすることがある。


…それが通用する職場ってある意味すごいよね。




試用期間で解雇って経験ないからわからんけど、あの人はこれからどうするのかな。私と同じ26ではあるが、大学院で2年を過ごした私より社会経験は長い。それで仕事ができないから解雇って…。世の中の無常を感じる。

給料を払っている以上、それだけの働きをする人材がほしいという雇い主の理屈もわかる。しかし、だとすれば自分はそれだけの働きができているのか? 専門職としてこの職場にいてもいいのか? そんなことを改めて考えてしまった。


今の職場で丸1年が経ったものの、私はまだまだ失敗続きで叱られることも多い。今日だって私情でイライラした先輩に「(私が)言ったことをちゃんとやってよ!」とみんなの前で叱られ、シュンとなってしまった。あれは私の失敗というより、理不尽な八つ当たりだったと思うけど…。

こういうことがあるたび、私ってつくづく駄目な奴だ、とうとう辞めさせられる…という思いが頭をよぎる。なんだかんだ1年続いているとはいえ、あっちはいつでも自分の都合で辞めさせることができる。役に立たんと思ったらその時点で切り捨てられる。そうなったときのことをちゃんと考えておかなきゃなぁ…。中途採用で雇ってくれるところがうまく見つかればいいけど。




…なんて、別に私が解雇を言い渡されたわけじゃないが、つい我がことのように受け止めてしまった。私はあの職場で何かの役に立っているのだろうか。要は自信がない。どんなに励ましてもらっても信用できない。だって今日みたいにみんなの前で叱られることもあるんだもの。


自分では真剣に仕事をしているつもりでも、相手のニーズに合わなければただの役立たず。私だっていつ辞めてくれと言われるかわかったもんじゃないんだから、まったくの他人事ではない。解雇通知の明日は我が身か…。そう考えると悲しい。





って、こんなことを考えていると、自分が解雇される悪夢を見てうなされたりするんだよね。お願いだからこれ以上ネガティブにさせないでくれ。





Photo_2


自分の責任じゃないときに怒られてもシュンとする。理不尽と思いながらも謝罪する。どうせ数分もすればあなたはケロッとするのでしょう。言われた側の私はショックを受けて塞ぎ込んでいるというのに。

あの人たちはあとから自分の行ないを思い返して反省することがあるのだろうか?



2016年4月19日 (火)

必然を捨て去る

4月早々、2週間ほど扁桃腺炎で苦しんでいたので久方ぶりの更新。インフルエンザじゃなかったので仕事には行っていたが、唾さえ飲み込むのに苦労するような有様だった。おそらく仕事の過労と自分の不摂生が原因なので、今後は規則正しい生活を心がけるようにします。



去る4月14日は知り合いの誕生日で、お祝いをしたあとに起きたのが熊本の地震である。起きた当初はまさかこんな大きな災害になるとは思わなかった。そういえば東日本大震災のときにも同じことを思った気がする。

今も現地では余震が相次ぎ、被災者の方はさぞ不安な日々を過ごされていると思います。それにまだ発見されていない行方不明者の方々、どうか無事に助け出されることを祈ります。私はお金もないし、送れるような物資もないしでまったく力になれませんが、皆さんを想う気持ちだけはフルパワーで送っておきます。


実は私は去年、地元で行なわれた災害対策の研修会に行っている。それは主に地元で被災した場合の想定だったが、県外で起きた自然災害の場合にも召集されたりするのだろうか? 3.11のときはまだ学生だったし、資格を取ってから初めての震災。まだどういった連絡もないので、今は自分の仕事をしながら情報を待っている次第です。








先週から今週にかけては職場でもこの話題で持ちきりである。ちょうどこの震災が起きる数日前、職場の人と「この世に『偶然』はあるのか?」という話をしていた。


私は「ある派」。その人は「ない派」。その人いわく、この世のすべては必然的に起きていて、どんな些細なことにも必ず意味がある。人との出会い、別れ、苦労、幸福、そういったものは偶然ではなく必然である。この人にとって人生とは、あらかじめ定められた枠に、必然的に埋まるはずのパズルのピースをはめていく作業である。

私はもちろん違う。人生がパズルだというのなら、最初に自分の核となるピースがひとつあり、成長や経験によって得られた他のピースを組み合わせて歪なパズルを作っていく。最終的にできた作品は、人によって大きかったり小さかったり、きっちりしていたりゴチャゴチャだったり、ひとつとして同じ形・色のパズルは存在しない。つまり私の人生観に枠は存在しない。偶然的に得られたピースを好き勝手にはめていく。それが私にとってのパズルの作り方である。



どちらが正しいというわけでもない。ただ、「必然」という言葉は人を幸福にもするし、不幸にもする。私は自分の人生が必然だなんて思ったことはない。というか、思いたくもない。自分の生活の貧しさも、眼の病気も、すべて必然的に起きていることだなんて思いたくない。この世で起こることはすべて意味があることだなんていうけど、それなら私は貧しさや病気から何を得たというの? 経験してみればわかるけど、ただただ悲しくてつらいだけだよ。

私はこの世に必然なんてない、偶然の連続だと思うのよね。昔は「自分がこれだけつらいのは何か意味があるんだ」なんて思っていた時期もあったけど、考えれば考えるほど理屈に合わないし、意味を見出そうとするとそれだけで疲れ果ててしまう。自分の不幸に意味なんか見出さなくてもいいよねー、と思えるようになったのは実はごく最近のことだ。



どんな不幸も自分というパズルを埋めるためのささやかなピースに過ぎないのか。そのピースがないとパズルは完成しないのか。逆に言えば、欲しくて欲しくてたまらない幸福のピースがあったとしても、枠にはまらなければどうしたって手に入らないのか。私はそういう風に考えるのがほんとーに嫌だった。ただ「必然」だからという理由で手に入らない幸福も、身に降りかかる不幸も、そんなもの認めたくなかった。私にだって他の人と同じように、ごく普通の幸福を手に入れる権利はあるはずだもの。





第一、すでに起きた出来事が必然か偶然かなんて言えるのは、生きているだけでめっけもんの幸福な生者だけである。震災で命を落とした人が「この地震は必然か偶然か」なんて考えるはずがなかろう。

話をしていた職場の人も分別はある人なので、「偶然はない」と言いながらも「そう思えるのは今の自分が幸福だからだろうなぁ」と言っていた。そう思えない私は現在まったく幸福でない生活を送っている。このツキのなさを必然だと言われたらどうしようもない。だからもう私は捨て去ることにしたのだ。自分の中から「必然」という概念を。



運命だとか宿命だとか、そんなわけのわからんもんに自分の人生を左右されたくない。パズルで言えば、勝手にピースの数とか枠の形とか決めないでほしい。自分のパズルがどんな形になるか、どんな色の模様になるか、全部最初から決まっているなんてそんな味気ないことは言わないでもらいたい。

私にとってこの世は偶然の積み重ねによってできている。必然なんてどこにもない。「○○したから××が得られる」といったような法則も存在しない。欲しいものを手に入れるにはひたすら努力するしかない。神も仏も存在するだけでまるっきり役に立たないのだから。



ただ、人との出会いに必然性はないけれど、偶然によって生まれた「縁」は大事にしたいと思う。私は小さいころから人間関係に縁がないとたびたび嘆いているが、いつか素晴らしいご縁に巡り合うことをいまだに願っている。私はこの世に生を受けてから一度も友人らしい友人を作ったことがない。人間関係のピースは私のパズルから完全に欠け落ちてしまっているらしい。


なので、いつか抜け落ちたピースをどこかで見つけられたらなーと思うわけである。私に友人がいないのは、もしかしたら偶然ではなく必然かもしれない。生まれてこの方、友人の数が0人って物理的にあり得るのか? どんな悪人でもひとりぐらい友達がいるでしょう。作ろうと努力していないわけではないのに、なぜかできないんだよなぁ。こうなるともうホントに必然なのかも…。






いやいや、あらかじめ決められていることなんてひとつもない。熊本城の復旧が終わるころには友人ができていることを祈る。


テレビの報道なんかを見ていると、被災された方々のメンタル面がとても心配です。食糧や水などの最低限の物資が行き届かず、狭い場所に大勢の人が押し込められ、いつ次の余震が来るかわからない。どんなに温和な人でも、長く極限状態に置かれるとイライラするのは当たり前だし、それがもとで他の人とトラブルになることもありましょう。

気休めかもしれないけど、1日に時間を決めてみんなでラジオ体操をするとか、そんな単純なことでもやってみるといいかもしれません。ガチガチに固まった身体と心をほぐすためにもなるし、みんなで一緒に行なうことによって一体感が生まれます。心が弱るとどうしても身体も同様に弱ってしまいます。身体が弱ると命の危険すらあります。どんな些細なことでもいいから、皆さんの心にわずかでも平穏が戻りますように。




ううむ、避難所におられるお年寄りの方々の映像など見ていると、今の仕事をほっぽり出して現地に行って手を握りたくなる。私にはお金も物資もないけど、そばにいて手を握るとかそれぐらいはできる。

ただ、場所が離れすぎていて今すぐ駆けつけられないのが恨めしい。しかし、行くにしても旅費や交通費は自分持ちだった気がする。ボランティアで行っている人は全部自分で出してるんですか…?


近日中に所属している学会から連絡が来るかな。今はそれを待っていよう。


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ひとりごと

  • 趣味関係で浮かれ騒ぎながらも、じいちゃんの初盆の墓参りにはちゃんと行きました。近い身内が亡くなったのはじいちゃんが初めてで、本人の魂は今どこにあるのだろう?と真剣に考えてしまった。遺影と位牌は実家にある。遺骨と墓は霊園にある。本人の身体は焼けて煙になった。なら魂はいま何処に? お盆ってそもそもなんのためのイベントなの?冷静に考えると不思議だ。
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