Ⅴ.大学院生の日常(過去記事)

2014年3月17日 (月)

指定大学院での放置経験

この3月まで、臨床心理士指定大学院というものに行っていたのである。

一応、第1種だった。大学院を出たら資格試験の受験資格がもらえる、というヤツである。



・・・ということをそういうシステムを知らない人に話すと、「えーっ、卒業とともに資格がもらえるんじゃないの!?」もしくは「在学中に試験を受けるんじゃないの!?」と驚かれる。知らない人がいるのか、と私は逆に驚いたりもするが、臨床心理士はただ大学院を出ただけではなれない。あくまで受験資格がもらえるだけ。その後、次の年度の臨床心理士資格試験を受けて合格しなければいけない。

つまり臨床心理士になろうと思えば、大学院(博士前期課程)に在学する2年、そして資格試験を受ける1年で、計3年の年月が必要。それも資格試験に一発合格すればの話で、当然合格しなければその分だけ無駄な歳月が経過する。
めでたく臨床心理士になれたとして、最短ルートでも25歳。その間にいろいろと行き遅れるわけである。それだけの覚悟、というかそれだけの時間を無駄にする屈辱と他人からの冷たい眼差しに耐えられるだけの精神がなければ、たぶんこの道は進んではいけないと思う。

大げさでなく、年を追うごとに周囲からの眼差しは冷たくなります。「24なのにまだ学生? 就職しないの?」と。就職したくてもできないの! 資格がもらえるのは最短でも25なの!と言いたい気持ちになるが、言ったところで無駄なので最近は苦笑いで済ませている。



在学中に勉強することはとても多い。学校にもよるだろうが、ケースの担当、実習、修士論文の執筆など、私の場合は休む暇もなかった。学校以外では週1のバイトが精いっぱい。指導する先生も忙しい人(何時に寝ているんだ!?という人ばかり)が多く、ちゃんと指導してもらえないこともしばしば。で、結局被害を受けるのは学生である自分たちで、ヒヤヒヤしながらも先生の都合に合わせざるをえない。

自分は誰のために大学院に行っているんだ、という疑問は何度も私の頭に浮かんだ。先生のためか? 学校のためか? 業績を上げるために頑張らされているだけなんじゃないの?と学校のシステムを疑ったこともある。
もちろん勉強は自分のためにするものだが、何か別のもの(特に先生など)に振り回されている感じはいつもしていた。自分は先生のために研究しているのか。なぜ先生のために自分がしんどい思いをしなければいけないんだ? そんな感じでいろいろ不本意なことも多かったと思う。



・・・で、最も理不尽だと思うのは、就職の世話を一切してもらえないことである。これも学校によると思うけど、私の場合は卒業とともにポイッと捨てられた。仕事を見つけるならひとりで勝手にハローワークに行ってきなさい、というわけである。大学4回生ですら就職セミナー的なものがあって、学校が就職先を少なからず世話する、というサポート体制があるだろう。だが、大学院生にはそれすらもない。文字通り、ポイッと捨てられるのである。

よく知らんけど、そういうものなのか? 大学院って。


それだけならまだしも、おそらく学校としての就職率を上げたいためだろう、就職ができたかどうかをしつこく聞いてくるのである。ひどいときは電話までかかってくる。就職先は決まりましたか、決まったら大学院にその旨をお伝えください、と自宅にまで電話がかかってくる。そのほか、先生からも顔を合わせるたび同じことを訊かれる。

うるさいっつーんだよ。放置しておいて結果だけを求めるのかよ。真面目に就職活動をしていない私も悪いんだろうが、お前らもお前らでけっこう非人道的なことをやっているんじゃないの?



あまりにも腹が立ったので、私は現在、心理学とはまったく関係のないバイトに就いている。先日も「就職は決まりましたか?」の電話がかかってきて、「医療関係のバイトです」と答えたら「心理に関することですか?」と訊かれたので、はっきり「違います」と一言。
いいんだよ。私の手であの大学院の就職率を下げてやるから。

入るまで気付かなかったけど、大学院ってホントに卒業後は放置されるのね。で、結果ばかり求められるんだよ。必ず来年度には資格試験に合格しなさいとか、大学院に関係のある職種に就きなさいとか、なんのサポートもせずに良い結果ばかり求めるんだからよ、あいつら本当に放置気質がハンパないよな。
卒業後は強制的に連絡先とか登録されるんだよ。実家はもちろん、就職先まで。たぶん、連絡しなかったらまた電話とかかかってくるんだと思う。結果はどうだったんだ、とうるさいほどに。なんだか練習道具や練習場所は一切提供せず、そのくせ試合で優勝しろと迫るスポーツチームのコーチみたいなもんだなぁと思う。



・・・で、私はそれに反発するように、専門科目とはまるで関係のないバイト生活を送っている。プライドはないのかとか、2年も在学して恥ずかしくないのかとか、いろいろ言われるけど別に間違ったことはしていないと思う。

あれだけ放置しておいて、それならばと自分で自分の行く末を決めたら、今度は別の職種に就いてお前にプライドはないのかとかおかしいだろ。じゃあ最初からそう言えよ。別職種を選ばないように就職先を世話しろよ。

私はたぶんあの連中が思うよりずっと自由気質だ。自分の行く末は自分で決める。放置されたのなら尚更だろう。私はたとえどの大学院を出ていようが、別職種に就いて自分の好きなことをしてもいいと思っている。だってそんなこと誰にも強制されていないもの。好きなことをしちゃいけないって誰が決めた? あんたらが完全放置するから、それならもうひとりで自分の好きな行く末を決めていいんだと私は理解した。それのどこが悪い!?


私はあんたらが思うほど物覚えが良くないし、好きなことがしたいと思ったらそっちに向かう人間だ。放置された=自分で自由にしていいということだろう。だから自分で自由にした。・・・それの何が悪いんだろう。
自分でハローワークに行けと言われたから行った。心理系を外れて、自分がしたいと思った職種を見つけた。応募したら採用された。そちらの方に行くことにした。で、なんだか怒られた。よくわからん。放置されて自由にしたら怒られたってどういうこと?



あの連中は、放っておいたら学生がホイホイ良い仕事を見つけてくるとでも思っているのだろうか。で、自分たちはその学生たちの血の滲む活動過程を利用し、大学院の就職率を上げるという自分たちの利益にしてしまうのだろうか。

まぁ、確かに仕事は自分で見つけるものだ。甘えるのはよくない。だが、その過程を世話しなかったくせに、結果だけを見て評価するなり怒り出すなり、いきなりアクションを起こすのはおかしくないか。
先ほどの例をまた挙げれば、練習を指導しなかったくせに試合で優勝できなかったことを責めるコーチみたいなものである。そんなのでいいのか? これが野球やサッカーだったら監督解任とかになっているところだよ。てか、大学院ってなんなんだ? 一体なんのために存在するものなの? 私はこんな理不尽なことに耐えるために2年も無駄にしたの?



・・・こんな思いのまま、資格試験に合格する気がしない。

大学院のホームページやパンフレットには、確か資格の合格率も載っていたはずだ。私が不合格だったら下がるのかなぁ。それとも無視されて数に入らないのかな。大学側が発表する数字だから、そこのところを操作しようと思えばいくらでもできるだろう。私の分を数に含めないとかね。当然、分母が違えば確率も変わってくる。


必ずしも卒業後の進路を世話するわけじゃない、とパンフレットに書くべきだと思うけどな。必ず就職できます、合格できます、と嘘の広告を載せるのは少なくともよくないと思う。だって私がいるんだもの。私だって一応そこの大学院の人間だけど、卒業間際に放置されて以来、まともに就職活動もしていないし資格試験に合格できる手応えもない。

私という人間が悪いんだってことになって、数には含まれないのかな。私のせいにされるのかな~。もちろん私も悪いんだろうけど、それだけじゃないような気もするんだけどな。





・・・夢を壊して申し訳ありませんが。

臨床心理士指定大学院を目指している人へ。
学校にもよるけど、卒業後は必ずしもバラ色ではありません。

私がその一例。

2014年3月 4日 (火)

新バイト先が決定

「就活」とはフルタイムの仕事を探す活動を指し、バイトやパートをメインで探している私は就活をしているわけではないらしい。安定していないから就活と呼んではダメらしい。


・・・という興ざめなことを言われてちょっとムッとしているのだが、とりあえず新バイト先が決まりました。今までの6年間の経験を活かして、またしても医療関係。資格を取るための勉強もしなきゃだし、バイトぐらいがちょうどいいのよ。

デカいところなので福利厚生もそこそこしっかりしているはず。週何時間以上だとなんちゃら保険に加入するとか言われたけど、ちょっと難しくてよくわからない。とりあえず来週からなのでそのとき詳しく聞くことにする。



自分で相変わらずだなぁと思うのは、職種はもちろん、急募の求人によくよく縁があること。今まで短期も長期もいろいろバイトをしてきたけど、ほとんどが急募の求人で、選考が甘いんじゃないかと疑ってしまうことばかりだった。履歴書を送った次の日に「今すぐ来てくれ!」と電話がかかってきたり、ジーパンにTシャツというやる気のない服装で面接に臨んで採用されたり・・・

私は能力がないから正攻法では他人に勝てない。だから選考が甘い急募の求人にターゲットを絞って、そこに潜り込むのが私のやり方。そうでもしなきゃ雇ってもらえないからね~。


で、このたびいろいろ面接を受けていて気付いたのは、私は何をするにも自由だということ。親の金で大学院まで行かせてもらったが、絶対にその関連の仕事に就かなければいけないわけではない。「今までお金をかけてもらってすみませんでした」という気持ちさえあれば、どういう職種の仕事に就いても別にええんでないの?と開き直りのような気持ちに駆られたのである。

だって、まだ若い私にはいろんな可能性がある。何をするにも自由だ。どう生きるにしても私の勝手だ。自分が好きなように、望んだように生きればいいではないか! 私は誰にも縛られずに生きることができる!!
・・・と、面接を受けている最中に悟った。で、その悟りを開いた面接で採用が決まった。やっぱりそうだよ。これなんだよ。私に足りなかったのは。自分の人生を運営していくのは自分だという、誰にも侵襲されないこの確信だったんだ!


これを悟ったのは採用が決まる前なので、採用か不採用かもわからないうちにこういう心境に至ったわけである。私は何をするにも自由なんだと。型にはまらない生き方をしてもいいんだと。このたび、面接を受けるという過程でいろいろと人生勉強になったのは事実。採用にならなかった面接もけっして無駄ではなかった。

世間体など気にせず、好きなことで食っていけたらそれでいいではないか。ヒトは、誰のために生きるのか。自分のために決まっているだろう!(少なくとも私は)




今度は独り暮らしがしたい。時給800円の収入でどこまでマトモに生きられるか疑問だけど、とりあえず今の家から出たい。いずれは大学院まで出た専門科目との両立を望む。無理かなぁ。

先日も、うちの父親(←いろいろ異常)に自分の雛人形を壊され、かなりショックを受けた。面接の次の日のことである。もう数年ほど出していない、祖母にもらった自分の雛人形である。私の管理が悪いのもあるんだけど、あんなろくでもない人間に壊されてかわいそうだった。
壊しといて謝りもしないあの野郎に「二度と触るな」と釘を刺し、ごめんね、ごめんね、と言いながらひとりひとり見ていくと、みんな穏やかな顔をしていて本当に安心した。あのときの三人官女の微笑みが忘れられないな~。面接を終えてナイーブになっていたせいか、柔らかな慈母のような微笑みに涙が出そうになった。あ~、いい顔だ。
(もう片付けちゃったけど)


いや、そういうことがある前から、マジでこの家にいるのは嫌だと思っていた。新しいバイト先が決まったら家を出たいなと思っていたので、もしかしたらこれが転機なのかもしれん。
先月、旅行で訪れた出雲大社やら厳島神社やらの神サマが、必死に「私を幸せにしてください」と願っていた私の姿があまりにも哀れで、不甲斐ないコイツをどうにかしようと力を貸してくれたのかもしれない。もしそうならお礼参りに行かなければな。

まぁちょっとしたことだけど、自分の人生は自分の手でどうにでもできる、というか、どうにでもしていいんだ!ということに気付けたからな。採用であろうと不採用であろうと、今回の就活(バイトだけど)はけっして無駄ではなかった。・・・と思う。

世間は、そうそう簡単に自分の思い通りには動いてくれない。だけど、そのために足掻いて足掻いて足掻きまくっていいんだ!ということに気付いた。
なんていうかな、できないけど、できるように足掻いてもいいんだ、という悟り? 今までは足掻くことも忘れていたからな。自分でもよくわからんけど大きな成長を遂げたと思う。



私は好きなように生きてOK。
親も、教師も、友達も、世間体も、そういうのはもう気にする必要ない。義理も人情も尊敬も知るか。誰にも縛られずに自分がやりたいように将来を決めよう。
そのための少々の犠牲ぐらいどうってことない。まだまだ人生長いんだもの、足掻く時間はいっぱいあるよ。
能力がない、免許や資格がない、ないないづくしで諦めるぐらいなら死ぬ気で足掻いた方がマシ。それで怪我しても私は大丈夫。これまでもいっぱい怪我してきたじゃん。そんな傷がまたひとつかふたつ増えるだけじゃん。


いや、正直なところまったく大丈夫じゃないけど、大丈夫になるための努力はしていいんだ。他人なんて知らないよ~、もう。親のために、教師のためになんて生きてたまるか。


今後、専門科目に準じた仕事ができない場合もあるので、親には「大学院に通わせてもらった分の金は絶対に返す!」と説得している。親いわく、「そういう問題ではない」らしいが・・・。すみません。好きなように生きさせてください。親不孝者でごめんなさい。



卒業式の3日後にはもう仕事なので、正直あんまり休む暇がない。私の春休みももう終わりだな~。朝寝坊、ゲーム三昧のグータラ生活に慣れてしまった身体がちゃんということを聞いてくれるかどうか不明だが、決まったからには頑張るか。

これからもいろいろあると思うけどな。

とにかく頑張って働く! 自分のために!


神様、これからも応援してください!!

2013年12月23日 (月)

イヤミと情緒不安定の渦中

近ごろ何かとデカい課題(〆切あり)がありまして、同級生および自分自身も精神的ストレスでいろいろと普通ではなくなっている節が見受けられる。

私は自分自身ではマシな方だと思う。確かにピリピリしてイライラして、小さいことに苛立って声を荒げたりということはあるけど、ちゃんと自分の中で折り合いをつけて数秒後には謝っている状態。イライラしてすみませんでした、と毎回思う。



そうでないのが同級生連中。


彼らは日に日に怖くなる。怖いっていうのはアレだよ、イライラのとばっちりがこっちにくる予感のような。特に私などイライラの種になりやすいらしく、先生にも「最近みんなが怖いんです」と相談したほど。

まぁ、私自身、彼らに迷惑をかけていないとはいえない。具体的にどこが?と問われると、うーん、よく言われるのは「どうでもいいことを楽しそうに話しているところ」。よく意味がわからんのだが、課題が山積みで大変な時期に、どうでもいいことを楽しそうに話して他人に聞いてもらおうと思うな、ということらしいです。
なので、迂闊に雑談もできない。

ピリピリした空気って好きじゃないからさぁ。ついついどうでもいいことを喋って空気を軽くしようとするんだけど、どうもそれが迷惑がられているらしい。だから最近は同級生が集まる場所に寄りつかず、ひとりでいることが多くなってきた。せいぜい重い空気が好きな人々同士、仲良くやっていればいいと思う。



同級生も妙な人たちで、連帯感?みたいなものを大事にするタイプだと思われる。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、という三銃士のような信条であるらしい。だが、私のようなヒトには、ひとりのためにみんなで共倒れという意味にしか受け取れない。

私は同級生だろうが他人を蹴倒してでも自分の利益を追求しちゃうヒトだから、なんで足の遅い人に合わせて併走しなきゃいけないの!?と思ってしまう。みんなも私が遅かったら置いていってくれていいし、私もみんなを待たないし。
そういうところも嫌われるポイントらしいです。


今までにも彼らにさんざんイヤミを言われているんだよね。仲間外れにもされるし、文字通り置いてけぼりにもされる。まぁ、おそらく日ごろの仕返しなんでしょう。

この前、自分の母が職場で感じ悪いことを言われると愚痴をこぼしていたのだが、そんなもん私など日常茶飯事である。嫌われているどころか、憎まれているような気もする。それだけのことをやってんだから仕方ない、と割り切っているところはあるが、これだけ嫌がらせをされていつまで黙っていればいいのやら・・・
っていうかアンタら、仮にも臨床心理学を学んでいて、将来はカウンセラーとして他人を支援する立場になるはずだろう? そんな人たちが気に食わないからといって私のような奴に嫌がらせをしている事実、このまま見逃していいのか。



先日も母に、「私は(嫌がらせを受ける)経験値が違う!」と自慢げに胸を張ったのだが、どこへ行っても嫌われ者になる私はたぶんこれからもそのままだろう。

中学時代、数えるのも面倒なほどいろ~んな人からいろ~んないじめを受けて、「なぜ私はいじめられるのだろう?」「なぜ他の人はいじめられないのだろう?」と親や先生を相手に本気で考えた時期があったが、今では「自分が悪いのかもしれない」という結論に達している。数えきれないほどの嫌がらせ、いじめ、イヤミ、仲間外れを経験してきたが、どれもこれも自分が自分であるせいだーという気がしなくもない。


だから、このたび現在の同級生連中からイヤミを言われたりするのも、自分に問題があるんだから仕方ないという気もする。そう思うから別に怒らないし、相手に対して「なにその嫌がらせ!? やめろよ!!」と反射的に返したことぐらいしかない。相手と喧嘩したり、好いてもらおうと努力するより、私は距離を置く方を選ぶ。顔を合わせなければ相手も気楽でしょう。



近ごろは自分自身も情緒不安定で、小さいことにイライラして家族などに当たってしまうこともある。今まで本当にお気楽な人間だったから、「私も追い込まれたらこうなるんだー」と新鮮な経験ができたと思う。

同級生たちが私にやたら嫌なことをするのもそういう反動かなぁと思う。ストレスがかかってイライラしちゃうことは誰にでもあるし、情緒が不安定になることも普通にある。ずっとそのままだと大変だけど、そういう気分の波があることは人として当然のことです。
だから同級生たちがピリピリするのもわかるし、それに対して私が空気の読めない発言をすることにイライラするのもわかる。だから少々の嫌がらせぐらい我慢するよ。私はどんな状況でもお気楽でのんきで、それが私というひとりの人の個性なんだから、それが気に食わないとか言われても「へぇ」と受け入れるしかないじゃん。



極限状態の人間のイヤミを笑って受け流せないほど、私は器の小さい人間ではない。これまであまりに~も多くのいじめを経験してきたせいか、少々の嫌がらせや仲間外れは朝飯前、簡単にスルーしてやる。っていうかむしろ、今みたいに正面からイヤミをぶつけてこられるレベルならまだいい。一番イヤなのは、見えないところでコチャコチャと周到かつ地味ないじめをされることである。

結局、仲間外れってのは仲間だと思うから悲しいんだよ。相手のことを仲間だとか友達だとか思って安心していると、外されたとき悲しくなる。それが仲間外れ。それならそもそも思わなきゃいいんだよ、と最近は割り切っている。だって、私ももう大人なんだよ、オトナ。中学生のころみたいにいちいち悲しんでいられないの。
大人だったらね、他人の行ないを許してやればいいのよ。いじめてくる奴、馬鹿にしてくる奴、仲間外れにしてくる奴、全部許してやりゃーいいのよ。それで私はアンタより一段高いところにいるんだぞって自慢してやればいいんだよ。悲しいけど、私にはもうそれしかないの。




現在の同級生たちの私に対する態度を見ていると、私は彼らにとってとてつもなく嫌な存在なんだな~としみじみと実感させられる。これまでの人生、幾多のいじめや嫌がらせを受けてきた理由がようやくわかった気がする。
たぶん、この世の中には私の存在に耐えられない人がたくさんいる(笑) いじめや嫌がらせは彼らなりの防御反応なのかもしれん。そう思うと、自分に嫌なことをしてくる人にも優しくなれる気がする。いや、腹が立つこともあるけど。


かつて、発達障害が疑われる年下の女の子に「すぐに傷付く人は嫌い。〇〇(私)みたいに、何を言っても傷付かない人がいい」とボソッと言われたことをいまだに憶えている。彼女は自分が、他人に対して思ったことをずけずけ言ってしまっていることをちゃんとわかっている。反省しているかどうかは知らないけど。それに対して平気な顔をしている私が珍しかったのか、そんな言葉をかけてくれたのである。
何言われても、何をされても、傷付かないし「ふーん」で済ませられることは、案外私の強みになるのかもしれない。まるでサンドバックのごとく他人の負の感情を受け続けることは心の健康に良くないけど、それによって自分自身が強くなれるのなら、もうしばらくこの地位に甘んじていてもいいかな~と思う。



今日は同級生の攻撃に耐えられず、早々に自宅まで帰ってきてしまったが、明日以降もいろいろと顔を合わせることがある。頑張って耐えよう。あと数ヶ月だ。

で、いつか時間と余裕があれば、「あのときの君たちは変だったよ」とこちらの印象を返してやる。絶対に今は自覚してないだろう。すべて終わったあと、仕返しの代わりに当時の彼らの状態を客観的に教えてやるよ。覚悟しておけ。




なんにせよ、他人を許してあげることは大事ですよ。

それは自分が相手より一段高いところにいるってことだから。
あなたが今まで許した相手の数は、あなたの器のデカさを示しているかもね。

2013年12月19日 (木)

何もできない無力さ

まだ学生としてではあるが、業務でカウンセリング的なことをしている。その中で、なんか最近「自分の無力さ」みたいなもんが湧き上がってきた。


・・・まぁ、逆転移なのかもしれん。詳しいことは言えないけど、相手は日常的に「できない」ことが多い人だから。もしかしたら相手の感情を、自分のものとして感じてしまっているのかもしれない。
その可能性は抜けないし、そうだとしたら別に私がゴチャゴチャ考えることはないのだが、そうでない方の可能性としてちょっと書きたくなった。



今日ポロッと言っていたのは、「なんだか届かない感じ」。

たとえ相手と良い関係を作っても、実際的に何か支援をするのは本当に難しいのよね。傍から見てどれだけ相手と良い関係性を作っても、私には実際的なことをする能力はない。それは経験だったり、スキルだったりするだろう。
関係は良いのかもしれん。だけど、能力もスキルもないから、実際的な支援はその人に届かない。そもそも、私が能力不足で適切なものを差し出せていない。本当に相手に必要なものは何か、どうすれば支援になるのか、そもそも私があの場にいる意味ってなんなのか・・・。不安と心配で押しつぶされそうである。


だから無力だな~と思うのだが、考えれば考えるほど、逆転移のような気もする・・・。っていうか実は他人に指摘されたんだよ。「それってクライエントさんが感じている感情なんじゃない?」って。

あー、これが逆転移かぁ~と思うと感慨深いものがあるが、言われないと気付かなかったという点は反省すべきである。のんきなことを言っている場合ではない。プロは自分で気付けるぞ。これこそアマチュアどころか素人の証拠であろう。
第三者の目って必要なんだなぁと改めて思った。ひとりでやっていると、どうしても思考が暴走しがちになるからね。



結局、他人である自分にできることなんて、たかが知れている。だけど、そのたかが知れているわずかな部分で支援するのが、専門家の仕事なのだと思う。とんでもなく難しいことだし、時にはこうやって自分の無力さとか届かない感じとか味わうことも必要なんじゃないかな。

当然、相手に届くのには途方もなく時間がかかる。私など「やっと関係ができてきたかな」と自分でなんとなく実感するのに10ヶ月かかった。それでもちゃんと関係を築けているのか、タマゴの殻の上のような危ういところを歩いているんじゃないかとか、いろいろ考えてモヤモヤすることもある。


まさに「偶然」や「縁」という言葉でしか表せないレベルで、たまたま出会った赤の他人と一から関係を築こうとしているわけである。それはもう、とんでもなく難しいし、知識と経験とスキル、そのすべてを全力投入してやっとスタート地点に立てるような次元の話である。

うーむ、私なんぞにそんなことができるのだろうか? 一番怖いのは、私のせいで症状や状況が悪くなるとか、私がいたせいでその人が不幸になるとか、未熟な私と関わったばかりに被害をこうむる人間が出るのではないかということである。
もう本当に、そんなことを考え始めると怖くて怖くて夜も眠れない。


私はまだそんな状態であるが、現場でバリバリ活躍している専門家の皆さんも、最初はそういう思いを経験しながら成長してこられたのだろうか? 最初っからいきなりできる人も少ないだろうし、徐々にできるようになってくるものだとしたら、最初のころの自分が未熟な状態で出会ってしまった相手は相当に不幸だよなぁ・・・




そんなモヤモヤを抱くのは今に始まったことではなく、少なくとも去年からずっとである。最近の逆転移がどうとかいう問題ではない。本気で自分の心を支配している不安と恐怖感。こんな私に、専門家としての仕事が務まるのだろうか?



・・・わからん。

いつか、わかる時が来るのだろうか。

2013年12月 2日 (月)

「かぐや姫」の主要テーマって?

近ごろ、ジブリでかぐや姫関連の映画が公開されておりますが、それと関係があるようなないような。先に言っておきますと、観にいっていないので映画のレビューなどではありません。


童話とか昔話とか、個人的には大好きです。

昔はどうだったかわからない。好きになったのはほぼ大人になってからで、「人の想像力ってすごいなぁ」と思うからです。アレを現実の世界で本当に起きたことだとは思っていない。だって、どうやってヒト+イヌ+サル+キジのチームで鬼を倒すんだよ。空想の物語だから自由奔放でいいなぁ、と思う。
また、物語の粗探しといいますか、「なぜいつもお姫様はピンチに陥るのか」とか「なぜたまたま助けてくれた身分不詳の男を結婚相手に選ぶのか」とか「ちゃんと育ててくれたおじいさんとおばあさんにお礼を言えよ」とかいろいろ考えてしまう。が生じるところにはいろんなミステリーが潜んでいて、深く掘り下げると宇宙の真理が見えてくることもある。それについてぼんやり思考する時間も好きです。



で、近ごろ自分の中でのテーマになっているのが、かぐや姫。同時期の映画公開はたまたまで、あれが公開される前から自分の疑問の種になっています。

あれの主要テーマってなんだろうね? 仮に心理学の目線で、かぐや姫の作品を自分に重ね合わせている人がいるとすれば、それはどういう心の動きがそうさせているんだろう?
好きとか嫌いはもちろん、「どこか自分と通じるところがあるな」って直感的に思う場合のこと。私はそうだなぁ、けっこう悪役に同情するところがあるので、縁もゆかりもないのに通りがかりの桃太郎に倒される鬼なんか「気の毒だなぁ」って思いますけどね・・・



さて、臨床心理学的に頭を絞って考えついたのは、


① かぐや姫は月星人であり、地球人ではない → つまり大多数の中の異端者である(という自覚? 逃避? )

② かぐや姫には、地球での出来事をすべて忘却して帰る故郷がある → 自分はいつか今の現実(辛さや悲しみ?)を忘れ去り、行くべき場所がある



①は、たとえば今生きている現実の世界がそぐわない人。大多数の中で「みんなと何か違うなぁ」「生きづらいなぁ」と感じている人。そういう側面を持つ人が、「実は月星人である」という地球にたった1人の異端者たるかぐや姫に思いを馳せるのかもしれない。

現実の世界での異端者とは別に、かぐや姫はたぶん容姿が美しいせいでモテるモテる。普通、月星人並みに異端な人が現実社会に現れたら、寄ってたかって仲間外れにするでしょう。20人ほどのクラスの中にたった1人、ちょっと変わった子がいるだけでいじめに発展する世の中ですから。
だけど、かぐや姫は仲間外れにされるどころかいろんな人から愛される。そういうところに憧れを抱くのかもしれませんね。貧しい家庭に引き取られたからよかったようなものの、大奥のど真ん中に現れたりしたら他の奥方からいじめられていたような気もするけど。


②はシンデレラコンプレックスみたいなものかな。いつか月からのお使いが来て、自分を本当の故郷へと連れ去ってくれる、みたいな。今の世の中に頑張って馴染もうとしていて、他人には言えないけど実は辛いんだよ・・・みたいな人に多いかもしれない。現実に満足していて、充たされているという自覚がある人はそもそも昔話には思いを馳せないでしょう。

今の人生が現実でなければなぁ、とは私もときどき思います。パッと目が覚めて、今までのことは全部夢でした、ということになればどれだけ幸せか。しかも「自分は月星人で、いつか本当の家に帰らなければいけない」なんて自分でわかっているとすれば、これほど嬉しいことはない。地球でどれだけ馬鹿をやったって、いずれ自分は月に帰るんだもん。
かぐや姫がそんなことを思っていたかどうかは知りませんが、私が思うに、地球での生活が思いがけず楽しかったのではないかなぁ。それで帰るとき、おじいさんやおばあさんとの別れを惜しんだのではないだろうか。いろんな男を弄んで、大判小判で好き勝手やって、それで自分は逃亡して終わりのはずが、地球での生活が思いのほか幸せだった。地球の人たちはこんなに親切だった。みんなと別れたくなかった。だけど、羽衣を着たら全部忘れた。

楽しいことも悲しいことも、すべて忘れられるこの羽衣、欲しがる人も多いのではないだろか? 私個人としてはとても欲しいけど。




ここまであれこれ書きましたが、昔話の主要テーマとは人それぞれでしょう。私にとってかぐや姫とは、「地球でたったひとりの月星人」「最後は地球での思い出を忘れ去って月に帰る」という物語。だからこのテーマで臨床心理学的に頭を絞ると、上記のような想像が膨らむ。

この作品、そもそもは「竹取物語」という名前であり、育てのじいさんである竹取の翁が主役の物語でもあるのだろう。もしかしたら親や祖父母世代でこの作品に思いを馳せる人がいれば、それは大事な子(孫でも)を泣く泣く手放した経験がある、もしくはそれに通じる何かがあったということかもしれない。



「臨床心理学的」とは、こういう物語ひとつ取ってみても、そのものが象徴している何物かを連想するところから始まる。それがこじつけでも、妄想でもいい。まずは想像してみるところからですね。合っている場合もあれば、完全に間違っている場合もあります。もちろん。

やたら注目するところ、もしくはあえて見ないふりをするところ、いろんな「何物か」が潜んでいる。・・・かもしれない。自分の想像をいきなり真に受けてしまうのも問題なので、常に「実は違うかもしれない」という頭を持ちつつ、信頼できる別の人にでも相談してみることですね。


たとえば、私は「かぐや姫」の物語はキライです。五人の男たち、それに帝を弄ぶところがどうしても好きになれない。容姿の美しさばかりに捉われて求婚する男たちも男たちだが、かぐや姫だって嫌なら嫌だとはっきり言えばいいのである。そもそも本人がその美しさを前面に押し出すから問題なのであって、本気で隠そうと思えば隠せるでしょう。翁の家に引きこもるとか。自分は月星人だという本当の噂を流して、男たちの足を遠のかせるとか。

以前誰かに指摘されたんですけど、私って「他人に騙される」とか「嘘をつかれる」とか、そういうことが大嫌いなんですよね。「誤魔化される」のも嫌いで、はっきり言えよ!と他人のことでもやきもちしてしまう。
そんな人だから、月星人であることを偽って、男たちの恋心をいたずらに弄んだかぐや姫が許せないのだろうと思う。第一、この時点で私であれば「この世のものとは言えない美しさ・・・? 魔性のものに違いない! 皆の者、家に火を放て!」とか言ってクーデターを起こしていたでしょう。それほどに騙されることが嫌いなのである。


・・・という風に、なんとなく深層心理みたいなものがわかる。私は騙されることが嫌いな人だから、出生を誤魔化して地球人の寵愛を欲しいままにしたかぐや姫は嫌い。だからこの昔話が嫌い。自分自身を題材にすると、そういうあんまり知りたくない側面もわかる。


それに比べれば、「桃太郎」や「浦島太郎」はそれほど嫌いになる人はいないんじゃないかな。「かぐや姫」はジブリの映画にもなっているぐらいだし、老若男女いろいろ考えさせられる作品なんでしょう。
うーん、イヌを働かせたり、亀に乗って移動するのは動物虐待だ、とか?(そんなこと思う人いるかなぁ・・・)



そのほか、洋風の童話でも同じようなことが言えるでしょう。この前、私は「赤ずきん」を「オオカミに食われる話」と表現したんですが、周りにいた人から「それは違うやろ」と非難轟々でした。
理由は今でもよくわからない。赤ずきんちゃんがオオカミに食われる話でしょ・・・? それ以外に何があるんだろう。猟師がオオカミの腹をかっさばく話か。着眼点はやっぱり人それぞれだな。





興味は尽きない。

昔話の勝手な妄想でこれだけ語れるんだな。
なんだかもうちょっと想像に浸っていたくなってきた。

2013年11月 2日 (土)

他人に都合良い人

他人に「人に優しくなりましょう」とか、「楽ばっかりするな、自分に鞭打って生きろ」とか、やたらと言いたがる人がいる。

近ごろ、後輩たちの話を聞いていて、「そんなことを他人に求めるのはお門違いなのでは・・・?」と思うこともあった。こうなると正しいのにとか、こうなると他人はもっと良くなるのにとか、大きなお世話じゃないかと思えることを言っている人たちをよく見かける。


他人にとって良いことをするって、どういうことなんだろ。教育現場なんかでは、よく体罰が指導だと言い張り、「子どもの未来のためを思ってやっているんだ」と主張する人がいる。たぶんそれとおんなじで、「こうなると(他人にとって)もっといいことになるのに」とやたら主張したがる人がいる。
下手すれば、それこそ暴力になるわな。


私は現在、学生として研究論文なんかを書いております。で、現代社会について論じたりすると、書き手である私自身、なんらかの思想に偏ってしまうことがあります。「こうなることが善、こうなることが悪」とかね。

くれぐれもそうならないように、と教授から念押しされております。自分で意識していなくても、「もっと社会がこうなればいいのに」みたいな考え方はみんなが持っているものです。そういう片側からの思想に偏りきりにならないように、私などテーマがテーマだけによくそう言われます。


・・・だけど、中には明らかに自分が信じる思想に偏っているだろ、という論文を見かけます。近ごろ見たのは、自分の考えや感情を相手に積極的に伝えることを推奨する、まるで全人類が外向的になれと言わんばかりの論文。思ったことは言うべき、言わないと通じない、相手が待っているのなら言葉に出して言うべきだ!と主張する論文です。現在の日本はそういうのがダメになった、などとも書いてありました。

まぁ、確かにそれが正しいときもあるでしょうが、私など全面的に正しいとは思えない。自分の感情をまるまる相手に伝えることが、相手にも自分にも正しいことかなぁ? 特に信頼し合っている人同士など、口に出さなくても気持ちが通じ合うぐらいがいいんじゃないか。この論文の著者は、感情は言葉のみでしか表現できないと思っているらしいけど、それ以外に自分の感情を表に出す方法はいっぱいあるぞ。むしろ、そっちの方が言葉より簡単なぐらい。

自分が思っていること、感じていることが言葉にできず、それ以外のもの(表情、態度、雰囲気とかいろいろあるやん)を使ってもこれっぽっちも表現できないとなれば、本気でそう思っていないか、無理に抑圧しようとしているか、なにかしら別の問題があるかのどれかだと思う。または、受け止める側のアンテナがないという場合もあるでしょう。



人によって、良くなるポイントって違うと思うんだよね。それを勝手に決めつけて、「こうすればいいよ」と押しつけるのは正直怖い。ありがた迷惑という言葉もあるぐらいだ。

自分の悪いところがわかっていない人に対しては必要かもしれないけどね。しかし、そこそこ自分のことがわかっていて、改善すべき点がわかっていながら直す気がない人に対しては、ただのありがた迷惑にしかならないと思う。
・・・私などその一例である。自分の悪いところは人に言われてわかっていて、直さなきゃな~とは思うものの、まるで直す気がない。それで他人に迷惑をかけることもあり、身近な人に指摘されることもあり。こうやってわけのわからないことを書き綴っていることが、誰のためにもならずブログの雰囲気が自分勝手なことになるだけだとわかっていても、直さない。私はそういう人。



しかし、他人に迷惑をかけない人間が本当に良い人間かなぁ。他人に都合の良い人間であるだけじゃないの。自分の行動規範を「他人に迷惑をかけるかどうか」で決めることになり、いわゆる超外向型。
他人に合わせて生きる人生、そんなもん疲れないのだろうか・・・。友達や恋人にするには良い人かもしれないけど、自分がそうなるのは嫌だ。



・・・他人が良くなる方法なんて、第三者である私たちにはわからんのである。

どっかで聞いたけど、世間は世渡り上手がダメみたいな言い方をする。他人より楽をして、ホイホイ要領よく生きていく人がダメみたいな。上を目指すならちゃんと努力をしなきゃいけない、楽していつまでも生きていけるほど人生は甘くないんだ、とか。


これを聞いて、私は自分が大学生だったころを思い出した。私ともうひとり、仲が良かった同級生は、なんでも要領よくやるタイプで、いくら難しい課題を抱えていてもバイトは通常通りやっていたし、好きなだけ遊ぶし、下手すると一夜漬けで仕上げて提出していたこともあった。それでも成績は普通、単位を落としたこともない。
・・・だから、努力しない要領が良いだけの人として、やっかみ半分であれこれ言われた。努力しないで今までやってこれたことが謎、とか言われた。謎とか言われても、現に今のところやってこれているんですけど。

まぁ、仕事と学業はまた違うのかもしれないけど、努力していないとか、ちゃんと課題と向き合っていないとか、周りからあれこれ言われるけど放っておいてほしいんだよね。それでうまくやっていけているなら、それでいいじゃん。他人に心配をさせるほど変なことはしていないと思う。
心配するなら、本気で遊びほうけていて課題ができていない人の方だと思う。そういう人は本当に問題だろう。課題に費やす時間は半分で、通常通りバイトと遊びを入れ、ちゃんとやることはやっている人をなぜ心配する? 不思議でならなかった。



私など努力が大嫌いだし、うまいこと生きていけたらそれでいいと思っている。そういう生き方はダメだとか、あとで苦労するとか、周りからやいやい言われるけど、別に私とあなたは違うんだし、私が不幸になろうがなんだろうが放っておけばいいじゃん。・・・と、私は思うんだけどな。皆さんはどうですか?

自分がそういう人だから、私は他人に口を出さない。「もうちょっとここを変えればいいのに」と思うことはあるよ。だけど、それを言葉に出したりはしない。出したら面白くないじゃん。万が一にも、それによって他人が良い方向に成長してしまったら、悔しいじゃないですか。私にとっては、出会った人すべて=ライバルなので、ひとりでも多くのライバルを蹴落とすためには、むやみな助言なんてしない方がいいです。
私の言葉で成長なんてさせないよ。(断言!)

仕事なら別。



・・・こういう悪い性格がダメだとか、意地張ってないで友達は作らないとダメだとか、野良猫と喋っていたら人として終わりだとか、いろいろ言われるけどそれって誰のためなんだろうな。
私を成長させようとして言っているの? 人間って、そこまで他人のためになれるのかなぁ。どうせ、そんな言葉の裏にも、発言者の相手自身が得するなんらかの利益があるに決まっている。・・・と、やたら疑り深いのも私の悪い癖。



他人に都合が良いだけの人ではありたくない。

正直、他人の助言とかもいらないし。

仕事や業務関係で、スキルアップのための助言はもちろんちゃんと聞く。それは経験者である先輩や上司に聞かないとわからないことだから。
だけどそれ以外の、私の生き方とか、考え方とか、そんなことアンタにはどうでもいいだろというレベルの話はちゃんと聞いていない。これは私が持って生まれた遺伝子と、今までの人生で培われてきた環境が形作った性格なんだよ。今さら他人にあれこれ言われてもねぇ・・・。


感情を口に出してはっきり言うことや、何に対しても全力で努力することが全面的に正しいとは思わない。だけど当然、全面的に間違っているとも思わない。必要に応じて使い分ければいいんじゃないの。言いたいことをはっきり言うとき、言わないとき。全力で努力するとき、しないとき。
ああ、その使い分けが難しいっていうのかな? それならわかる気がする。どっちかに針を振り切ってしまうのではなく、いつでも好きな方に針を左右に振れる方が、たぶん生きるには楽だと思う。だけど、使い分けより振り切ってしまう方が簡単(疲れるけど)だし、どちらかを推奨してくる人はそっちに流れようとするのだろう。最初に挙げた論文の著者とか。



後輩に言ってやりたくてまだ言えてないんだけど、他人の論文を読むときは、著者がどちらの思想に偏っている人なのか、まずそれを見極めるところから始めなきゃいけない。論文が「感情を口に出して伝えることが善、伝えないのは悪」という考え方で染まりきっているならば、それだけでも著者の人となりがボンヤリと見えてくる。
この人はもしかしたら、もともと感情をうまく表現できない人で、自分自身も伝えられるようになりたいのかもしれない。逆に、この人は感情をなんでもかんでも言葉で表現してしまう人で、自分のその行為を正当化するためにこの論文を書いたのかもしれない。・・・そういうことがいろいろ考えられる。

私の研究テーマの論文も、当事者が書いたのとそうでないのとでは、やはりニュアンスが違う。当事者だとやっぱり感情的なところが見え隠れするし、当事者じゃなくても、それなりに冷静な目線で書けているならまだしも、「当事者を救済する」ことに鼻息を荒くしたような人はやはり感情的になる。
自分自身、冷静に論文を書こうとしているのに、そんな他人が感情的に論じている論文を参考にして、思想や考え方が乗り移ってしまうのはやはり問題だろう。もちろん、こちらが都合の良い理論だけを探して、それ以外の論文を排除してしまうのも問題。


自分自身も完璧にできているとは言い難いけど、なにしろ感情論や思い込みは一番悪である。他人に「もっとこうなれ」と言う人ほど、そういうものに流されてものを言っているところがある。本人は親切のつもりなんだろうけど。

だからまぁ、「もっとこうなれ」と言っている論文はあんまり信じない、もしくは懐疑的な目で見ることが必要でしょう。なんだかよさげなことを言いながら、遠回しに他人に都合良い人間になれ、と言っていないか? それもやっぱり、人生のライバルをひとりでも蹴落とすための姑息な手段・・・。考えすぎか。




まー、私もこうしてブログなんかを書いていますが、そういう風なことを書いていないかいつも心配になる。偉そうなことを自分勝手にあ~だこ~だと書いておりますが、読者の皆さんにはぜひとも話半分で聞いていただきたいと思う。

確実に正しいことなんてひとつも書いていないからねぇ(笑)


こういうよくわからない話をしていて、面白いと言ってくださる方がひとりでもいるなら、それはそれで価値があると思います。正直なところ、「それは違う!」って思ってくださってもいいんですよ。モヤモヤしてくださるのが一番嬉しいかもしれない(笑)



私の人生、どうも「生きがい」ってのが見つからなくて現在も右往左往しているのですが、絶対に「他人に都合良く生きること」にはならないことを願います。生きがいってなんだろうな。間違っても、学校や業務ではない。息子かな。趣味かな。なんだろうな。




・・・そういえば近ごろ、尻の引き締め?に挑戦中です。今週の月曜日から始めて、今日で6日目になるのか。ずっと大臀筋に力を込めっぱなしなので、下半身がまんべんなく筋肉痛になっています。

この運動が尻の役に立つのか、そもそもいつまで続くかもわかりませんが、なんとなく引き締めたくなったので頑張ろうと思います。

2013年10月29日 (火)

親友を喪って2年

書こうかどうしようか迷ったんですが、心からの哀悼の意味も込めてやっぱり書くことにします。



先にお断りしておきますが、親友とは人間ではありません。

手のひらに乗るぐらいの文鳥でした。

・・・なので嫌がる人もいるかと思い、最初に書きました。
他人から見ればものすごくおかしな話をしているので、そういうのが読みたくない方は読まないでください。あとで責任は持てません。




あの子が家で誕生してから、今年で11年になるのかな。

自分が中学1年生ぐらいのころかな。そんなころから2年前まで、ずっと私の親友でいてくれた。まぁ、相手の方が先に寿命が尽きることはわかっていたけど、人間の友達がいないヒトだったからな、私は・・・
だからその存在の価値はとても大きいのだ。


今まで出会った人間のことすらマトモに憶えていないのに、文鳥や犬猫など周囲にいた動物のことはよく憶えている。普通に考えればおかしいし、異常者だとか言われても仕方ないと思う。

こういうところを他人に喋ると、呆れられるか、苦笑いされるか、聞かなかったふりをされる。だからって変えようと思っても変わらないところだし、人間を好きになろうとしても「???」で終わるし、鳥や野良猫と付き合っている方がずっと楽なのである。



まぁ、そういうヤツだから、この子が生まれた中学生時代も、同じ人間との間ではうまくいかなかった。1年ごとに別の人間にいじめられ、無視され、馬鹿にされ、服を足で踏まれ、いきなり呼び出されて囲まれたこともある。こういう状況下、ああ、もう無理だーって思うことがあったりなかったり。それでも不登校にならなかった自分のことは褒めてやりたいと思う。

学校以外の、家もそんなに心地いいところではなかったし。学校でいじめを受けているとわかっても、うちの親は「いじめっ子の家まで行って、どうして自分をいじめるのか聞いてきなさい」とか言うんですよ。全国のいじめられっ子の皆さん、いじめられている身でそんな芸当ができますか?
親とかいう連中、なんの役にも立たんと思った瞬間だった。




そういう環境で、なんら臆することなく自分と接してくれたのは本当に文鳥ぐらいのものだった。彼らはこっちを馬鹿にしたり、笑ったり、無視したりしない。声をかけたら返事してくれるし、手を出したら乗ってくれる。食事中、いきなりこっちに飛んできて飯をよこせと要求してくる姿も、うっとうしいながらに可愛かった。

このころから家には十数羽の文鳥がいたので、友達はこの子だけではない。大学時代の同級生の名前すら思い出せないのに、物心ついたころから一緒に暮らしていた文鳥たちの名前はすべて憶えている。不思議なものだと自分でも思う。
その中でも一番仲が良く、周囲からマトモじゃないと捉えられる私とずっと親友でいてくれた子が、2年前の10月29日に亡くなったのである。・・・たぶんわかってもらえないだろうけど、私にはとても価値がデカいんです。今まで出会ったどの人間より、あの子の存在が価値がデカい。



2年前の10月末、ちょうど数日前から体調を崩していて心配だった。かなりの年寄りだったからね。私はこのころ大学の授業と週3のバイトを続けていたので、28日の晩も22時ぐらいに自転車を漕いで必死に帰ってきたのです。

もしかしたらもうダメかもしれない、と思いながらだったんですが、このときはまだ生きていてくれました。ぐたっとして見るからに力がなく、目もずっと閉じている。・・・あのときのことはよく憶えていないんですが、手に乗せて必死で名前を呼んでいた気がします。もうこれがお別れかと思うと、自然に涙が溢れ出てきて前が見えなかったし。



・・・あのときの心境をどう説明すればいいのかなぁ。自分と相手は寿命の長さが違うし、先立たれることはわかっていた。9年も一緒に生きるうち、なんとなくその違いみたいなのがはっきりしてきて、今とうとう恐れていた瞬間が目の前に訪れようとしている。その絶望感、みたいなものかな。
まぁ、あんまり理解してもらえないだろうけど・・・(汗)

その日の夜は眠れなかったし、ずっとわけのわからないことを考えていた。どうして寿命が違うのかとか、どうして先立ってしまうのかとか、これからどうすればいいのかとか、私も一緒に連れていってくれたらいいのにとか、そういうことをず~っと考えていた。
それで、29日になってから見にいくと、眠るように亡くなっていた。覚悟はしていたから、そんなに大きなショックは受けなかった。むしろ、私がバイトで夜遅くに帰ってくるのを待っていてくれていたことに感謝した。



・・・だけど、自分の半身が死んだ気分だった。

あのころ周囲の環境から除け者にされていた自分と、唯一、本当に唯一、交友関係を結んだ相手である。他の友達(文鳥)もいたし、姉妹のごとく付き合っていた近所の犬(ゴールデン)もいたけど、この子はまた特別だった。「親友」という言葉で表すのも言葉足らずではないかと思うぐらいである。

自分の身体の半分ぐらいは、あの子と一緒に死んでしまった。本気でそう思えるほど、当時の無力感と喪失感はハンパなかった。いまだに時々思い出すし、2年経っても「一緒に行きたかった」気持ちは拭えない。なんていうか、そっちの方が楽だっただろうなぁと思う。



こういう気持ちは、誰にもわかってもらえないな。

この記事を読んでくれている人にもわからないだろう。それは皆さんを過小評価しているわけではなく、きっとこんな記事を読んでしまったことを、いずれ「見なかったふり」「聞かなかったふり」をするだろうから。まだ否定された方が気が楽だ。見ても聞いてもいなかったこととして扱われる方が、私にとっては辛い。

まぁ、別に誰にもわかってもらえなくても、気持ちは実際に存在するし、どれだけ否定されても本当にわかるのは自分自身だけだし。野良猫と友達だとか、現在一緒に暮らしている文鳥は息子だとか、そういうことを言って眉をひそめられるのはいつものこと。
今さら始まったことではない。

なんだろうな、人間の友達は人間だけだと限定するから私が変な人扱いされるのかな。そんなに変なことかなぁ? 私は人類の誰よりも、2年前に亡くなった子のことを大切に思っているけど。そういうところを変な人だと嘲笑られるのはいいけど、無視まではされたくないなぁ。




・・・変な話、自分はヒトに生まれるべきじゃなかったと今では思う。

無駄に寿命が長くて、無駄に知能が(他の動物と比べて)高くて、価値のない人生を生き続けている。これほど無駄な話はあるのかと、自分自身の生きている意味がよくわからない。もっと寿命が短い生物に生まれたかった。そしたらこんなにも長い間、ダラダラとなんの価値もない人生を生き続ける羽目にはならなかったのでは・・・


親友の死に対して、もう、悲しい、とかじゃないのよ。ずるい、という気持ちの方が大きい。
死者にめちゃくちゃ失礼な言い草だけど、天に召された親友は、もうこの世を苦しみながら生きる必要はない。だけど、私には死ぬまで苦しみもがき続ける人生がまだいっぱい残っている。 親友にはそういうのがないのが、少し羨ましいな、と思う。

亡くなってから1年ぐらいは悲しい気持ちの方が大きかったんだけど、今では「ずるい!」の気持ちの方がデカい。もし神サマに慈悲があるなら、あのとき一緒に行かせてくれるか、とっとと無駄な人生を終わらせて早めにあの子と再会する願いを叶えてくれるはずだと思う。今のところはまだグダグダと生きているだけなのだが・・・



ヒトとしての一生を無駄に長く生きて、良いことなんて何もないと思うんだよねー。それなら同じ文鳥として生まれて、同じように10年ぐらいで一緒に天に上がっていけたらよかったのに。無慈悲だなぁ、この世の中は。

現在、私には息子と呼ぶ文鳥がおります。親友はあの子だけだから、現在の子のことは友ではなく息子と勝手に呼んでいる。そっちの方がしっくりくるから(笑)
この子もいずれ、私を置いてひとりで行ってしまうだろう。そのとき、また「ずるい」と思うのかな。それが何年後になったところで、そのころ私がヒトとうまく関係を築いているとは思えない。どうせまた動物ぐらいしか友達がいない、という話で他人に嘲笑われているだろう。


現在と変わらない未来なら、私はいらないなぁ。

こんな面白くない人生を面倒くさく生きて、果たして何が得られるのだろうか。見つかるのは無駄ばかり。全然良いことない。世界には長く生きたくても生きられない、儚い命がたくさんあるというのに、おかしいなぁ。
自分の残りの時間、電池みたいな形で外に排出できるのなら、それを分割して恵まれない子どもたちに譲渡したい気分。なんだかウルトラマンみたいだけど、そっちの方がずっと価値があるんじゃないか。ドラえもんの秘密道具でどうにならないのかな~。だって、もうこのままなんて嫌だよ。



今日、あの子の2度目の命日を迎えて、また残された自分がひとりで生きなければいけない1年が始まった。そんなことばっかり考えて、親友のあの子にとても失礼なことをしてる。だけど、私はもう疲れたし、本当に嫌なんだよ。生きづらいもん、この世の中・・・

世間的に嘲笑われている私を見て、あの子はなんとも思わないのかね。もし逆の立場なら、親友が生き恥をさらしている光景は見るに堪えないよ。とっとと連れていってくれたらいいのに。精神的に半身が死んだ状態で、あと何年命を長らえさせる気だよ。




・・・なんて、恨み言だって本人に届かないから言える。


ごめん。

キミのこと、今でも大好きだよ。
私の人生の中で、キミと過ごした時間はほんの一部だったかもしれないけど、その一部を一緒に生きてくれたキミにはどれほど感謝の言葉を並べても足りないぐらい。アリガトウ。キミに会いたい理由を、自分がこの世にそぐわないせいにして、本当に弱い人間だよね。

あとどれぐらいかわからないけど、この世を去る瞬間まで、キミの名前はずっと憶えておきたい。いつまでもキミを思い出してメソメソしている私だけど、もうしばらくは時々やってくる発作のような涙の雨を流させてほしい。だって、それほどに大切なキミだから・・・





自分が保育園のころから今まで、先立っていったりまだ私のそばにいたり、親友を含む親しい文鳥たちに心から感謝する。あと、顔ぶれがよく変わるけど、いつもクールながらに私に接してくれる野良猫たちにも。また、私が生まれたころから妹のようにかわいがってくれて、身長を追い越してもずっと姉みたいな顔でそばにいてくれた、近所のゴールデンレトリーバー(数年前に乳がんで死去)にも。

何年後かに私が死んだとき、彼らは向こうで待っていてくれるかなぁ。今まで接してくれた動物たちと再会して、あちらでは幸せでいられるかな。会いたいヒトはいないけど、動物たちは本当にたくさん。
他の人はびっくりするだろうな。それだけ楽しみに生きてみようかな・・・

2013年10月18日 (金)

ありのままを受け取ること

近ごろtwitterでは変態まがい(?)なことを書いておりますが、アレはあくまで仮の姿であり、本人はちゃんと真面目に業務に従事しています。


そんな業務で、とあるクライエントさんに対してカウンセリングらしきものを続け、そろそろ1年になります。詳しいことは個人情報になるからナイショ。

ようやく軌道に乗ったというか、関係性ができてきたというか、1年もかかりましたがなんとなく「距離が近くなれた」気はします。


これは私のイニシャルケース(初めて自分が受け持った、感慨深いケース)で、初心者ながらに右往左往しながら続けてきたものです。まぁ、お世辞にも完璧さとは程遠いですね~。最初に出会ったころから、ようやく意思疎通ができてきたかもって思えるようになるまで、ホントに1年近くかかりました。それまでは一緒に霧の中を右往左往していた感じです。


で、臨床家のタマゴとしてケースを続けていて、自分が何をやってきたか、と問われるのが一番怖い。だって、はっきり言葉にならないんだもん・・・。行動療法!とか、精神分析!とか、はっきり胸張って答えられるならそれに越したことはありません。だけど、私がこの1年でやってきたことは、そんな〇〇療法などというご立派な言葉では表せないものです。

もがいて、迷って、一緒に右往左往した。これがすべてだなぁ、と今ではそう思います。


詳しくは言えませんが、私がこの1年間、向き合ってきた人は言葉がうまく使えない人でした。比較するのに正常とか普通という単語はできるだけ使いたくないけど、たぶんこのブログを読んでくださっている多くの人は、他人と意思疎通をするのに言葉を多く使うでしょう。だけど、この人はそういうことができなくて、私との会話もほぼ成り立ちませんでした。

カウンセリングとは誰かと向き合って話をするだけ、という印象があるかもしれません。確かにそれは間違っていない気もしますが、私のこのケースでは当てはまりませんね~。ときどきは会話するよ。「外の気温はどうでした?」とか「家では最近何をしているんですか?」とか。しかし、そんな他愛のない質問でも、この方は簡単に返事ができません。なので、こっちからいろいろ訊いて負担になってはいけないと思い、私もあれこれ質問はしないし、2人ともず~っと無言!・・・という時間も多かったです。


それじゃ今までどうしてきたのか、と問われると返答のしようがない。・・・というのが私の現状。自分が今までやってきたことを、口に出してはっきり他人に伝えられない。正直、何をしてきたのか本当にわからない。今まで苦悩しまくりながらケースを続けてきて、もうダメかもしれないと思うこともあり、指導の先生に落ち込みながら相談したり、自信を失くして慰められたり、いろいろありました。
それでようやく関係性ができてきた、相手にとって良い方向に進んでいる、もっと自信を持っていいよと言われても、なぜこういう流れになったのか、私自身もよくわからん。専門家が言っているのだから本当らしいのですが、私には何がどうなって今の状態になったのか、教科書には書いていないどころか、自分の目にも明らかではない。


・・・まぁ、タイトルにも書いたんですが、ありのままのクライエントさんを受け止める?みたいなことはやってきたかな、と思う。私もこの社会ではヘンな人で、社会不適応者だと自分では思っている。だからそういう側面を揶揄されることも多いわけで、多数とは違う変わった人には共感を覚えることもある。

私が1年向き合ってきたこの人も、社会では正直「多数とは違った人」であると評価される人です。というか、そもそもああいう場所に来る人は、大多数とは違っていて周りから「ちょっと変わった人だよね」と言われる人がほとんどです。
だから、私自身、他人に少々変わったところがあっても大丈夫というか、どっか変だからそれだけで嫌うなんてことはまずない。変わった発言をする人や、変わった考え方を持つ人は、私にはできない発想をしていたりすると羨ましいとさえ思うこともある。私自身、充分ヘンな人だからね。

生まれた時から人外の動物たち(文鳥とか)と囲まれていた私は、こういうのが意外と得意なのかもしれん。今だって物言わぬ14羽の文鳥たち相手に、ひとりでなんか喋っていたりするし・・・。いや、喋らなくても相手の気持ちはわかりますよ。14羽いようが何十羽いようが、ひとりひとり個性もあるし、言いたいこともなんとなくわかるし。
こういうところがヘンな人と言われる所以であり、別に言葉がなくてもやっていけるという人間を逸脱した能力(と言えるのかどうか)に繋がっているのかもしれない。わからんけど。



だけど正直、私の手には負えないと思ったことは何度かある。私には無理です、抱えきれません、誰か助けて~!って。未熟な証拠だと思うんだけどね。私がこの人の負担になっているんじゃないか、私の存在がこの人を苦しめているんじゃないか、こんな未熟でダメな私と関わってしまったことが、今後この人にとってとてつもないマイナスになるのではないか・・・うんぬん。こういう時期もあったりなかったり。

「ありのままを受け取る」だけじゃ、〇〇療法という名前は付きません。自分が何をやっているのか、それがわからないことが本当に辛かった。いや、今も正直辛い。自分は今まで何をやってきた? 目の前のこの人に何ができる? 負担にだけはなってはいけない。専門家のタマゴとしてふさわしいことをやっているか? 胸張って、私はこの人とうまく関わっているといえるか?

いえるわけがないだろう!というのが、今も昔も私の答え。



この1年、目には見えない、言葉で伝えられない、そんなよくわからないところでこの人と関わってきました。不安も、焦りも、心配も、ぜ~んぶ経験した。うまくできたとはお世辞にも言えない。だって、本来ならどっしり構えていなきゃいけない私が、オロオロしたりワタワタしたり、悩んで迷って混乱しまくっていたんだもん。これじゃあ、クライエントさんも安心できないってもんです。

まぁ、それでもなんとかやってこれたんだよねぇ。以前、もうダメだ!っていう時期があって、ケース的にも精神的にもドスーンって落ち込んだことがありました。「もう終わりだ・・・」って正直思いました。やっぱり私はこの人の負担なんだ、もう会わない方がいい・・・って自分も、おそらくは周囲も、そう思いました。

・・・だけどなんの因果か、今まで途切れずに1年近く会いにきてくれて、「きっと、乃銀さんの存在が救いになってるよ」って(世辞かもしれませんが)専門家から言っていただきました。それで、ああ、私のやってきたことは無駄じゃなかったんだって、今ようやくちょっとだけ思えるようになりました。あくまで、ちょっとだけ。まだ自信はありません。



〇〇療法、〇〇分析、そういう立派な名前がついたカウンセリングは、ぶっちゃけやっておりません。「このケースを通してお前は何を学んだのか?」という質問には、今でもはっきり答えられない。周囲に言ってもらわないと自信が持てない。・・・こういうところが自分の改善すべき点というか、もっともっと成長していかなきゃいけないなぁと思うところですね。

現在の状況を考えると、私たちはカウンセラーとクライエント、という縦の関係ではないですね。一緒にもがいて、迷って、混乱して、不安になって、やっと、や~っと、隣に並んで立つことができたっていう感じ。
あ、そうか。現在、私はこの人の救いになっているかもしれないけど、私だってこの人からいっぱい学ばせてもらったんだ。それこそ目には見えない、言葉でも表せないでっかい財産を、この人からいっぱい受け取ったんだなぁ。

今はまだわからないけど、もしかしたら今後の自分の人生に、このケースが大きな意味を持ってくるかもしれません。財産だ!って胸張って言えるように、これからも頑張りたいと思います。まったく自信はないし、まだ自分が何をやってきたのかわかっておりませんが・・・



そうは言っても、クライエントさんの状態が良くなったわけではありません。やっと今、スタート地点に立った、というようなものです。1年経って、ようやくここまで・・・って感じ。遅いだろ、と言われるかもしれませんが、何年経っても深まらない関係性だってあるわけで、まったくの他人同士が、しかも言語という道具をほとんど使わず、ここまで来られたのはもしかしたら良いことなのかもしれません。
・・・私が間違っている可能性も大いにあるので、過信はしませんが。




うまく言葉を喋ることができないのは、この社会を生きるにあたって間違いなくマイナスになるでしょう。多様性がどうの、個性がどうのと言われている現代ですが、日常会話すらままならない状態の人をそうやすやすと受け入れてくれるとは思えません。
この人も、今までにそういう経験をたくさんしている人です。これからだってそうでしょう。だから、この人にはそうじゃない場所が必要だったのだと思います。外に出れば敵はたくさんです。そうじゃない場所、敵がいない場所でいられるように、私はもしかしたらこの人と迷い、混乱しまくっていたのかもしれません。

今までの1年は、そのための場所作りだったのかもしれない。・・・ということは、やっぱり「これから」なんだよね。この場所じゃなくてもいい、別にもっとふさわしい場所があるとすれば、それを見つけて提供するのが私の役目であるかもしれません。
この場所が永遠にこの人にとって心地よい場所で在り続けるとは思っていません。この場所を出て、適切なところへ繋がるよう、その細い細~い繋がりを作っていくのが私の最後の役割なのかもしれません・・・。永遠に一緒にいるわけじゃありませんからね。この人の人生の、わずかな部分だけを一緒に過ごしたというだけです。



繋げていなきゃ・・・と思います。


もがきまくって、混乱しまくって、今ようやくスタート地点に立てたんです。これから一緒に歩けなくてもいい。というより、歩くのはたぶん無理です。これから一緒に歩いてくれる人、支えとなるものを探すのが、この人にできる私の最後の支援なのかもしれません。

もしそれが実現したら、これほど嬉しいことはないんだけどな。人を相手にしている以上、こっちの思い通りにはなかなかならないものだし、どうなるか正直わかんないけど。



本人(私)はもう必死なんだけど、他の同級生や専門家からは「優しさが伝わってくる」「ふんばっている感じ」と言っていただきちょっと嬉しいのだが、「どうして自信が持てないのかね?」と首を傾げられることもあります。そんなにすぐ自信なんて持てませんよ。だってまだ初心者だし、専門知識もないし。

うー、自信が持てるようになりたいなぁ。



・・・ありのままでいられる場所って、あんまり実生活じゃ得られないよね。私自身、得ているとは言い難い。それをようやく他人に提供できるようになったのかな・・・。それは相手にとって嬉しいことなのかな。どうでしょう。

〇〇療法とはっきり言えないカウンセリングで、学派とかを忠実に守っている専門家からすれば眉をひそめられるレベルでしょう。「こんな面接のどこがカウンセリングだ!」とか言われるかもしれません。
だけど、もしこのカウンセリングが相手にとって少しでも利益になっているのなら、他人の専門家の評価など、そんなもんどうでもいいやと思う初心者カウンセラーです。




私はもっともっと成長したい。

まだ伸びられるよね。たぶん。

2013年9月11日 (水)

閉鎖病棟を歩いて

先日、精神科の閉鎖病棟へ見学に行かせてもらいました。

閉鎖病棟とは、患者さんが外に出られない病棟のこと。病室や、外へ通じる扉にはすべて鍵がかけてあります。扉をくぐるたび、開錠→施錠→開錠→施錠→、という過程が何度も繰り返されます。


・・・まぁ、お世辞にも開放的なイメージではありませんでしたね。
ひとつの病室に、4~6人の患者さんがいて、ひとりきりのスペースというのがカーテンで仕切ったベッド回りぐらいしかありません。窓ははあるけど日光があんまり入らないし、夜など真っ暗になるでしょう。おまけに建物自体が狭いし、端からちょっと歩いたらもう行き止まり。

私は以前、眼科で入院したことがあるんですが、それよりも狭くて暗い印象でしたね。身体の病気と精神の病気では、やっぱりいろいろ違うのかなぁ。楽しそうな会話とか、笑い声とか、全然聞こえない。普通のテレビの音が大きく響いていたぐらい。

お医者さんたちの仕事場もちょっと覗いたんですが、なんていうか・・・、殺伐としていますね。保護室(病状の重い人を閉じ込めておく部屋)の様子を映すモニターなんかもありました。まぁ、お世辞にも楽しい職場とは思えません。


どこでもそうなのかわかりませんが、病棟には「ベッドを埋めていい割合」みたいのがあって、全体の何割かベッドを空けておかないといけない、という規則があるらしいです。急性の患者さんなど、いつ入院することになるかわからないし、緊急のときに対処できるようベッドを確保しておくそうです。

数ヶ月でベッドを空けないといけないところもあれば、ほとんどそこに同じ患者さんが住んでいるようなところもあります。病状が安定して出られても、悪化したらまた戻ってくることになりますからね。その繰り返しだっていう患者さんも多いです。


目撃して衝撃だったのは、ほぼ丸裸の患者さんが、ストレッチャー(車輪つきの簡易ベッド)の上に横たわり、向こうの職員(NSかPSWかは不明)に2人がかりで身体を拭かれていたことでしょうか。見ていいのか見たらダメなのかわからず、ちょっと目をそらしていました。

ほか、ベッドに仰向けに横たわり、ずっと独り言を呟いている人とか。

歪んだ表情をして、無言で歩いている人とか。

椅子に座って、じーっと何かを凝視している人とか。


中には男性と女性が(鍵つき扉で)分かれている病棟があり、男性のみの場所へ行くとき、「女性が行くとちょっと危険」と言われたときはどうしようかと思いました。なんていうか、セクハラまがいのことや、もっと過激なことを強引にしてくる人も多いみたいです。恐々行かせてもらったんですが、自分が緊張して気を張り詰めていたせいもあるのか大丈夫でした。



80~90代ぐらいの患者さんばかりがおられる病棟も見たんですが、こちらは排泄物の臭いで鼻が曲がりそうでした。案内してくれる職員さんは平気なのか!?と訝ったんですが、慣れておられるんでしょうかね・・・。さすがに鼻をつまむのは失礼なので、必死で耐えました。

ここはほとんどがひとりでは生活できず、「生きている」というより「生かされている」に近い段階なのではないかと思いました。だって、見た感じもう90歳は過ぎてそうな人ばっかりなんだもん。



・・・ざっと見学させていただいて、正直に思ったことは、「ここにいたくない」という気持ちです。いくら仕事をしなくていい、食べさせてもらえて風呂にも入れる、好きなことして時間を潰せる・・・とポジティブなことをいくら言われても、私は絶対にいたくないです。もう、早く帰りたかった。患者さんたちと目を合わすのが怖かった。

本当に、本当に正直に言うと、そうです。最悪かもしれませんが、自分の気持ちに嘘はつきたくない。正直にそう思いました。よくこんなところにいられるなぁ、と思いました・・・。



私はどちらかというと、ガラス張りの窓を隔て、医師やPSWの方々がおられる側にいます。そのガラスを隔てた私と患者さん、何が違うというのだろう? 両者は同じ人間だ。しかし、何かが違っていて、ガラスのこちら側と向こう側、それがはっきりと分かれている。

それは一体なんだろう・・・。何が違っていて、彼らはガラス張りの向こう側にいるのだろう。
私は専門家のタマゴとしてガラス張りの向こう側に踏み込んで、あちこち歩いてみて、患者さんに挨拶もしてみて、「この場所にはいたくない」って思ってしまった。怖い、と感じてしまった。
・・・最悪だ。最悪な奴だと心から思う。




患者さんと、私は、何が違うというのか。


あれからずっと考えている。答えは出ない。

怖い、と正直に思ってしまった。彼らは同じ人間だ。なんにも違いはない。私だっていずれ、何かきっかけがあってそちら側に行くかもしれない。・・・だからこそ、目を背けてしまうのだろうか。他人事じゃない、と思うから怖いのだろうか。



・・・でも、そしたら「怖い」ってなんだ。

どうして何もしていない、名前もわからない、ただ廊下でたまたますれ違っただけの人に「怖い」と思うのか。それが偏見とか、差別なのだろうか。何かされるんじゃないか、嫌なことを言われるんじゃないか、相手が何を考えているかわからない、予測がつかない・・・。そういう怯えからくる、怖さなのではないか。




私はね、もっと経験を積むべきだ。そう思った。


専門家を目指しているくせに、何を血迷っているのか。
何もしていない人に対して「怖い」なんて、恥ずかしくないか。

愚かだ。
どうしようもない愚か者だ。


それに、違いを探してどうする。
ガラスを隔てたこちら側と向こう側、何も違わないんだよ。

どうして自らの悪い感情を、どうにかして正当化しようとするのか・・・
怖い、嫌だ、ここから離れたい、私はそういう気持ちを正当化し、逃げようとしている。思うこと、感じることは自由。だけど、それをちゃんと反芻して、繰り返し繰り返し考えて、自分でちゃんと消化できるようにならないといけない。


・・・それが、専門家たる自分のすべきことなのに。
逃げてしまうのは一番ダメなこと。いや、たとえ一度は逃げてしまっても、そこから自分の立ち位置に戻ってこないといけないのに。それだけの力、私にはあるだろうか?




ちゃんと、真っ直ぐに、考え直さないといけないことが多い。

感情にフタをするのもダメ。
感情のままに動いてしまうのもダメ。

わかっちゃいるけど、現場ではついつい守れなくなる。それはたぶん、私がまだ未熟で、経験が浅くて、世間を知らないからだろう。




・・・ああいう場所、誰も好きこのんで住みたいとは思わないと思う。だけど、住んでいる人がいるということは、その人をそこへ入れたいと思う人の存在がどこかにあるのだろう。だからこそ、金を払ってあの場所に住み続けているのだろう。

きっと、それは本人だったり、厄介払いをしたい家族だったりするのだと思う。
家にいればただの手のかかる人だけど、お金を出して病院に入れたら、自分たちで面倒を見なくて済む。それが年金受給者のお年寄りであれば、その患者さんが生きている限り、年金という名の金は家族のもとへ転がり込む。厄介払いはできるわ、年金はもらえるわ、そりゃー面倒な年寄りは片っ端に病院に入れてしまえ、みたいな風潮になっても仕方がない。



かつて、うちの亡き曾祖母も、90過ぎたぐらいからああいう場所に住んでいたことがあった。というか、病院がほとんど強引に入れたのだ。見舞いに行くと、周りは今回見学させてもらったのと同じような、意識も意思も感覚も失くしたような方々ばかりだった。排泄物の臭いを消すための、消毒薬の臭いで鼻がもげそうだった。

年取った曾祖母は気にしていなかったかもしれないけど、見ている家族は辛くてね。みんなで力を合わせて、なんとか曾祖母を病院から出したのだ。そして老人施設のようなところに入って、大往生するまでそこの世話になった。


でも、どの家族もそういうわけじゃない。90を超えた曾祖母のことを、ただ単に厄介払いをしたいと思えば、ああいう病院の片隅で一生を終えていただろう。家族は曾祖母が受け取るはずの年金をもらって、のんびり豪遊でもしていればよかったのだ。
それは老人ばかりではなく、若い人もそう。親や親戚が面倒を見たくないと思えば、金さえ払えば病院は預かってくれる。強制じゃないんだから、見舞いにこなくても別にいい。


・・・患者さんの全員がそうではないだろうけど、私はついついそういうことを考えてしまうから、今はまだ正面から入院患者さんに向き合う勇気が出ない。きっと、冷静ではいられないだろう。
別に同情するわけじゃない。だけど、誰かに厄介者扱いされるとか、うまく人に利用されるとか、私は私でいっぱい経験していることだから。もし専門家としてその事実を知ったとき、それを伏せて本人さんたちに接することができるだろうか? 家族を罵倒してやりたい、そういう気持ちになってしまわないだろうか?





・・・違いは、現実の境遇だけだ。


たまたまそうなっただけ。

私はこうして外を歩いていて、彼らは閉鎖病棟の中にいる。今のこの時間も、皆さん施錠された病室の中におられるだろう。ベッドに横たわり、何日も何日も、一体その脳裏で何を考えておられるのだろうか。

寂しくないのだろうか。
そういうときもきっとあるだろう。
感情が湧き出る場所、心は誰にでも等しくあるはずだから。




・・・私は彼らのために、何ができるだろうか?


簡単に答えは出ない。

これから長いこと、ずっとずっと、考えていきたい問いかけだな・・・


2013年8月19日 (月)

誰のための“学派”

私はあんまりないんだけど、心理学には「学派」というものがある。
フロイト派、アドラー派、ユング派、とか。要は、どの有名な心理学者の理念に従うか、みたいなことです。

芸術や音楽にもあるでしょ。印象派とか、古典派とか。たぶんそういうノリ。

訊かれるときは訊かれます。「あなたは何派ですか?」って。

心理学に〇〇派とかあるんか、と初めて知った人もいるでしょうが、大学院より上の立場でこの質問に答えられないといろいろマズイです。馬鹿にされます。
かといって、答えたところで険悪なムードになることもあります。仲悪い学派同士もありますからねぇ~。

ちなみに大学によっても「〇〇派が強い」とかありますし、それを憶えたら人によって答えを変えてもいいんですけどね。
私はきっぱり「〇〇派!」とは答えませんが、「・・・はっきりとは決めてないんですけど、自分と考え方が近いかなーって思うのは〇〇派です」という言い方をします。大体はこれで通ります。ここまで言って、「はっきり決めんかい!」とまで言う人はなかなかいません。



で、これを内輪で言うだけならともかく、心理療法とかカウンセリングにも応用されてきます。たとえば強硬なフロイト派は、精神分析のみを行なうため、行動療法などもってのほかという考え方をしています。しかし、たとえば強硬なワトソン派はその逆で、行動療法こそ正しい心理療法と信じ、精神分析など行いません。

私もまだアマチュアの端くれですが、心理療法に「これが正しい」というものはありません。だって、人はそれぞれだもん。抱えている悩み、病気も人それぞれ。精神分析ですべての人が助かるわけがないし、行動療法で全人類を救うことができるわけではない。
新しい考え方を持ち込んでくれた先人たちに感謝しつつ、ケースバイケースで心理療法を行なえばいいこと。そう思っているから、私は〇〇派というのを決めていないのです。訊かれたら、「考え方が近い」という言い方をするまで。




ちょっと尊敬している某大学の心理学者さんの言葉ですが、「目の前の患者さんが良くなるのなら、どんな心理療法を使ってもいい」というのが自分の心に残っています。

強硬な学派に所属している先生などは、「〇〇療法は使ってはいけない」「〇〇療法のみを使いなさい」と生徒に命令・・・いや、指示することもあるそうです。当然、それに逆らったら学校にいられなくなるでしょう。クライエントさんや患者さんに施す心理療法が、カウンセラーのバックにいる教授や先生などによって決定されていることもあるのです。それって怖いことだと思いません?
だって現場にいるのはクライエントさん、もしくは患者さんと、カウンセラーの2人です。本来は、クライエントさんと実際に向かい合っているカウンセラーが対応を考えるべき。しかし、その後ろにいる教師が自らが信心する特定の心理療法のみを強制したら、それって全然カウンセリングにならないじゃないですか。ただ、学派の信者が好き勝手やっているだけです。


・・・強硬な心理学派は、もはや強烈な宗教にも値する。
昔からそう思っていますよ、私は。




こういう話は、大体が本を読んだり誰かの話を聞いたりして知っていたんですが、この前とうとう実際の人に出会ってしまいました。

「自分には合っていないから」「学校の先生が言っていたから」と、自分が信ずる心理療法以外のことをしようとしない人です。うわ、これトンデモない人だ、と直感しました。
おまけにチームで仕事をしようとしない人で、情報の共有も一切しない。「自分だけが聞いた話を言う気はない」って。現場では、いろんな専門職と情報を共有し、それぞれの強みを活かして患者さんの苦痛を和らげることを第一にしているのに。


この人には、目の前のクライエントさんも、患者さんも、何も見えていません。学派とか、著名な心理学者とか、信仰心とか、特定の心理療法とか、そればっかりです。頭から「目の前の患者さんの症状を少しでも和らげよう」という意識はありません。自分が信じる学派に従うこと、そればっかり考えている人でしたね、あれは。


この人に、果たして患者さんを救えるのか。

まぁ、救える人もいるでしょう。心理療法自体は優れているし、それがガッチリ合う人には効果が出るでしょうから。

・・・でも、当然合わない人だっているよね。合わない人に対しては、「自分の手には負えません」って言って放り出すか、現状維持もしくは悪化の一途で放置した挙句、患者さんをとことんまで追い込むとか、そのへんです。



だから、合わない場合は別の心理療法を、という柔軟な対応が現場では必要なんです。最近は「認知行動療法」という心理療法が流行り(?)らしいけど、あれで救われる人も全体の何割かです。絶対に効かない人だっているんです。全員に等しく効果が表れるなんて、そんなもん毒かなんかですよ。


薬物療法も然り、ですね。
ときどき「薬物療法は邪道だ!」とか言っている人がいますが、これも向き不向きがあります。薬が必要にならない場合もあります。しかし、統合失調症など、薬がないと治療が始まらない場合もあります。

薬がダメだという人は、一体誰のために自分が戦っているのか、考えてみてほしい。自分が嫌なら飲まなければいいこと。「精神障害者のために」とくくって言うのなら、それは大きな間違いです。薬が必要か必要でないか、決めるのは専門家です。それを受け入れるか受け入れないか、決めるのは患者さん本人です。そのどちらでもない人々が正しい知識もなく、全否定とか全肯定とかやってんじゃねぇよと若干思うこともあります。





学派とか個人の勝手にすりゃいいと思うけど、なんでも全否定は良くないと思う。全肯定も。

私は別にどっかの心理学者のために心理療法をするわけでもないし、狭い視野でしか物事を見られない人間にはなりたくない。学派も心理療法も、患者さんやクライエントさんのためにあるべきだと思う。私たちはただ、それを施す人。もしかしたら既存のものを踏み台に、新しい学派や心理療法が生まれるかもしれない。それはとっても大きなことだ。


私は今まで、「〇〇学派」という言葉に縛られず、それでも患者さん(クライエントさん)の苦しみを少しでも和らげてきた専門家を何人も知っている。自分も専門家としてこの仕事に就くなら、こういう人になりたいと正直に思った。



こういう態度は、世間から疎まれるかもしれない(笑) どこにも所属しない、恥知らずの人間だと。・・・別にそれでもいい。私がもしどこの学派にも所属せず、患者さんやクライエントさんとちゃんと向き合うことができていたら。これ以上、何を望むっていうの?




私もいくつかケースを持っているけど、〇〇療法っていうのに着手したことはまだありません。自分にできるのか、怖くて手が出せないっていうのが大きい(笑) だけど、今はまだその時期じゃないっていうのも思うね。

なんかちょびちょびやっているだけだけど、それで相手が満足してくれるなら、別にそれでいいじゃないかと思う。特定の心理療法が必要じゃない人だってもちろんいる。強硬な専門家からしたら「そんなもんカウンセリングじゃない!」って言われるかもしれないけど、あの人にはこれでいいのだ。私でなく、相手がいいなら良いではないか。



目の前の人の苦しみを和らげるためなら、使えるものはなんでも使う。

やや誇張した言い方だけど、そういう人になれたらいいのかもね。

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ひとりごと

  • 趣味関係で浮かれ騒ぎながらも、じいちゃんの初盆の墓参りにはちゃんと行きました。近い身内が亡くなったのはじいちゃんが初めてで、本人の魂は今どこにあるのだろう?と真剣に考えてしまった。遺影と位牌は実家にある。遺骨と墓は霊園にある。本人の身体は焼けて煙になった。なら魂はいま何処に? お盆ってそもそもなんのためのイベントなの?冷静に考えると不思議だ。
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