Ⅱ.思案、迷走

2017年1月20日 (金)

もれなく左腰痛

自分のブログって定期的に見返すべきだな。そのときは気分が盛り上がってやたら偉そうで高尚なことを書いていても、時間が経てばすっかり忘れて書きっぱなしの自画自賛で終わってしまう。

ま、それでも5年前の自分と今の自分では立場も何もかも違う。学生のころはまだ輝かしい希望に満ち溢れていた。それが今やこんな奴になっちまったんだから、私の人生ってほんと失敗だったなぁなんて思うわけである。

大体、ブログの色が数年前からどう見ても喪中なのもおかしいだろう。始めたころはもっと明るい色だった気がするのだが、いつこうなってしまったのやら。






世間はトランプ次期大統領の就任式がどうのと盛り上がっているが、所詮私には関係のない話である。向こうの大統領がオバマさんだろうとトランプさんだろうと、私の極貧生活にはなんら変わりはない。トランプさんになって給料が上がるってんならちょっとは注目するだろうが。

大体さぁ、民主主義の国が国民投票で選んだ大統領を今さら拒否するのはおかしんでないの。嫌なら投票しなければよかっただけで、アメリカにはあの人に通ずる思想の持ち主が馬鹿ほどいるってことでしょうよ。向こうの人々は大統領個人を拒絶するのではなく、国に根付くそういう思想を敵に回すべきだと思う。



社会に出て嫌ほどわかったが、思慮深く誰にでも親切で、性別や人種および宗教、あるいは学歴や年収、主観的幸福感といったものに左右されない博愛主義者…なんて人はまず出世できない。できると思っている人はフィクションの見すぎである。

人は誰しも平等で慈しみ深くあるべきだが、そうなれないのがこの生物の醜いところである。どんな人にも少なからず、何かの才能で他人より抜きん出たい、世間的に良とされる収入を得たい、なんていう欲がある。それを持たない人は、よほど運に恵まれた人か神に選ばれた人でない限り、地べたを這いつくばって他人に笑い者にされるのがオチである。




…私自身、何度そういう目に遭ってきたことか。「人を蹴落としなさい」「人より抜きん出なさい」という教えに対し、全力で拒絶して現在に至る。私という人間は口ばかり達者で、運にも神にも恵まれていなかったようです。

そりゃ、キャリアのためには人を蹴落とすことも必要だろうが、私はそういうことをしている自分を醜いと思う。現代の言葉で言えばキモい。人を貶めて嫌な思いをさせている自分も、他人の悪口を言って楽しんでいる自分も、想像するだけで嫌だ。そのお陰で出世とも地位とも無縁で、いまだに地べたを這いずり回っているのだが。


それに比べりゃ政治家なんて、国会で居眠りするか、悪口を言うだけでお金がもらえるんだからいいよねぇ。悪口の標的ははっきりしているし、批判されたら謝罪なり撤回をしてハイおしまいなんだからさ。




アメリカも韓国も、もしかしたら日本もそうかもしれないが、「自分だけが幸せであればよい」なんて思想は本当に利己的で、人というより動物に近い。自分の腹だけが膨れたらよい、自分の遺伝子だけが後世に残ればよい、弱者や負け犬は自然の摂理に従って死ねばよい。動物としてはそれでいいのかもしれないが、果たして人としてどうなのだろう。

人類だってもとを辿ればバクテリアの発生から命をもらっているわけで、根本は他の生物とそう変わらないのかもしれない。だが、仮にも国を動かす立場の連中がそれではいかんだろう。それが影響力のある金持ちならなおさら、もっとそれ以外の人間に目を向けんかい。


…なんて言っても説得力ないだろうけど。








太鼓持ちは私が一番屈辱的と思う行ないである。つまらない人間に媚びるのは絶対嫌だ。それならいつまでも負け犬でいい。

なんであんな国にヘコヘコしなきゃならないのだろう。冒頭でも言ったが、どちらさんが大統領でも私の給料が上がるわけではなく、誰が困ろうが株が下がろうが全然関係ない。それより自分に明日の飯があるかどうかが最優先事項である。





先日、安い業務スーパーで食材の大量買いをし、重い荷物を持ったせいで腰を痛めてしまった。服など3割引きや半額のときしか買えないこの悲しみ、どこの政治家に理解できるというのか。

管理人が絶望的に嫌いなのは、1に政治家、2に教師、3に医者。理由は他人の苦しみがわからない連中だから。こんなのが人の未来を左右するかと思うと反吐が出るね。



2016年3月30日 (水)

誰かの心に残るように

久しぶりの平日の休みに銀行回り。ごく狭い地域を自転車で駆けずり回り、4軒の銀行を巡ること5時間近く。最終的に「この操作は本店でしかできません」などと言われ、急きょ自転車を路駐、電車で本店まで行った。

本店の職員さんに遠まわしに文句を言うと、「支店でできるほどシステムが進んでいないんです」。…別の銀行では同じ操作が本店じゃなくてもできたんですけど?(とはさすがに言わなかったが)


戦利品は箱ティッシュ×2とラップ×1。職員さんのミスで待たされたお詫びと、新たに定期預金を契約したお礼。どうでもいいが、今日初めて帯つきの札束をカバンに入れて持ち運んだ。なんだろうな、別に悪いこともしていないのにビクビクするあの感覚は。それを定期預金にしたいと言うと、窓口の職員さんはパンフを取り出して「投資しませんか?」とにっこり。生まれてこの方、そんなものを勧められたのは初めてだったので戸惑った。よくわからんので断りましたけれども。

昼飯を食べたのは昼の2時を回ったころで、なんかもうヘトヘトに疲れて味もよくわからんかった。久々にそういう経験をして思ったが、「銀行回りで1日が潰れる」というのはけっして大げさな表現ではない。なんで銀行というのは平日の15時までしかやっていないのかね?




前からちょいちょい言っている気がするが、私は金の使い方がちょっと特殊。自分の趣味のためなら惜しみなく金を使うが、それ以外のことには一切金をかけない。たとえば身だしなみは社会人として最低限のことはするが、必要以上に自分を飾ったりおしゃれに気を遣ったりはしない。この数年間、ヘアカットとカラーを自分でやっていることからもわかるだろう。美容室に行く金をケチり、その分を自分の趣味にあてているのである。


銀行で定期預金を契約するとき、職員さんに(どういう理由かはわからないが)「すぐに使う予定はありますか?」と聞かれてふと考えた。今はまだ幸か不幸か使い道がない。でも、必要なときが来ればすぐ引き出せるように、なおかつうっかり手を出してしまわないように、わざわざ定期にしたのである。「そのとき」が何年後に来るかわからんが、もっとよくわからない投資に金を持っていかれるよりはましだろうと思う。






趣味とか才能というのは、いつどのタイミングで花開くかわからんものです。


数ヶ月前、私の知っている人が病気で亡くなられた。その方は世間的に言う健常者ではなかったが、優れた芸術家であった。ユングのいう内向的感覚型。私など芸術性のカケラもない人間が見れば「どうしてそうなった?」と疑問に思う作品ばかりだったが、芸術家の先生方の受けはとてもよかった。

普段は無口で存在感の薄い人だが、たまにそっと優しい気遣いを見せてくれる人だった。でしゃばりでもなんでもない、本当に何気なく思いやりを示してくれる。数ヶ月経った今でもたまに思い出して悲しくなってしまう。私はこれまでの人生で、誰かの死をこんなに悼んだことはなかったかもしれない。


そして数日前、その人のことがフッと話題に出た。その人の半分ほどの年齢の若者で、たまたま同じような作品を完成させた人がいたのである。「あっ、これ○○さんが作ったものと似てる」と誰かが言い、数年前その人が芸術の一般公募で賞を取ったときの冊子をみんなで見返した。ちなみにその若者も極めて内向的な人である。


そんな様子を見ていて、ああ、そうかと思った。人が亡くなっても、作品はこうして残っている。それを見返して懐かしく思う人がいる。インスピレーションを得る若者がいる。あの人が生きていた証みたいなものはここにちゃんと存在しているんだ。そう思うと、なんかガラにもなくジーンと来てしまった。

よくある表現だけど、その人が死んでもみんなの中で生きているってこういうことを言うんだろうな。




私が個人的に好きなゲームの台詞で、「人生の意味はいかに長く生きるかではなく、何を残して死ねるかだ」というものがある。

この人の生き方はまさにそうだった。平均寿命より若く亡くなられたから、数字的に見れば長寿とはいえない。しかし、この世に残したものは常人より遥かに多い。あの人が残した作品が、今もたくさんの人々の心を揺さぶり、影響を与えている。誰にでもできることではない。そういう意味でも、私はあの人のことを強く強く尊敬している。




つまるところ、創作活動とはそういうものなのかもしれない。「金を稼ぐため」「売るため」という理由では人々の心に残らない。私がいつかの時点で死んだとしても、その痕跡が誰かの心に残るように。そういう心根で作り上げられたものが、いずれ後世に伝えられて意味を成すのかもしれない。それが絵であっても歌であっても、映画でも本でも漫才でもなんでもそうである。


だから私も、これまで貯めた金を全部失っても構わない!ぐらいの気持ちで何事にも臨みたいと思う。それがいつになるかは正直まったく見当もつかん。でも、私はムダに長く生きるより、誰かに記憶してもらえるような何かを残して死にたいと思う。例が極端だが、たとえば金子みすゞさんのような。






この記事を書いていて、またあの人のことを思い出して、悲しくなって画面が潤んで見えなくなった。

年齢は親子以上に離れていて、血の繋がりもなんにもない、ほとんど会話らしい会話はしていない、ほんのわずかな時間を一緒に共有しただけだけど、あの人が生きていた痕跡は私の中にもちゃんと残っている。




以前から正直何を考えているかわからない人だったので、たぶん化けて出ることはないでしょう。未練とかなさそうだし。自分が死んだことに気付いてなかったらどうしよう、とかたまに考えるけど…。

みんなが忘れたころになって、ふっとドアを開けて入ってくるような。今もまだそんな気持ちでいます。どうかあちらでも創作活動を続けておられますように。で、私のような芸術性のカケラもない人を困らせていますように。




長く生きる人より、何かを残せる人になりたい。

何十年後になるかわからないけど、あの人の死を通して改めてそう思いました。いつかそうなれるように自分への投資をコツコツ続けようと思います。正直、どっかの企業に金を預けるより希望があると思う。いつか自分のもとにチャンスが巡ってきたときのために。



…ってことは、ネガティブになっている場合じゃねぇな。(ため息)


2015年6月10日 (水)

天命の同窓会へ

先日、小学生時代の同窓会に行ってきた。ひとりだけガラケーでLINEをやっておらず、人間関係の末端に位置する私には連絡が来るのが最も遅く、当日の1時間前まで何の同窓会か知りませんでした。

こんな奴がいるのか?

だって小学生と中学生は人数が違うだけで(私にとっては)ほぼ同じメンバーだし、幹事に「同窓会行く?」と聞かれて「うん」と適当に返事しただけで、どの同窓会に自分が参加するのか知ろうともしなかった。一緒のバスで行った元同級生に「今日はどの先生が来るか知ってる?」とさりげなく聞き、「〇〇先生と、××先生と……」と答えるのを聞いてようやく知った。ああ、これは小学生時代の先生の名前だな……って、よくこんなコンディションで同窓会に行ったよな。というか、よく誘われたよな。



そんなこんなで、自分と幹事と一緒に行った元同級生以外、誰が来るかもさっぱり知らなかった。さすがにこれで身に沁みたが、私はとっととスマホに替えてLINEをすべきだ。ただでさえ希薄な人間関係の末端にいるのに、いつの時代の同窓会かも知らずに参加する奴がいるか?


……で、なんだかんだ全員が集まってみてわかったが、同窓会って勝ち組もしくはリア充が集まるべき場所なんだな。私みたいな非リア充が行く場所ではなかった気がする。正直、専門職に就いてなかったら行かなかったでしょう。結婚している、子どもがいる、仕事がうまくいっている、とりあえず幸福な人生を送っている、というまるで私とは真逆の人々が集まっていた。人数にして全体の約半数。なるほど、我らの同級生は約半数が勝ち組でリア充ということになる。(違うかもしれないけど)

参加しなかった同級生はどうしているのやら。元気にしているといいけどな。



この中で唯一負け組で非リア充の私は最初ふてくされ、猛烈にトゲトゲして全身から黒いオーラが出ていたらしい。元同級生にそう指摘されたのだが、あんたはいいだろうよ、あんたは。仕事があって結婚して子どももいるんだからな。私にはあんたが持っている幸せのうち3分の1も持っていないのよ!




Photo

猛烈にトゲトゲして黒いオーラを出す自分(想像)






……しかし、私は自分で思うよりよくやったと思う。

我ながらよく参加したものだよ。以前にも書いていたかどうか、私はこの時期まったく友達がおらず、毎年別のいじめっ子から標的にされる稀代のいじめられっ子でした。仲間外れにされたり、変なあだ名をつけられたり、文房具を捨てられたり、靴を捨てられたり、体操着を踏まれたり、それはもうバラエティ豊かないじめを受けてきました。唯一されていないのは暴行とパシリかな。


そんな過去がありながら、よくぞ今回の同窓会に参加したものだと思う。私は自分を褒めてやりたい。行ってみて初めて気付いたけど、同窓会には私に変なあだ名をつけたり靴を捨てたりした連中が普通に参加していましたわよ。だけど、それを見ても「ああ、あいつらも来とるな」と思っただけで、怯えたり怖がったりは全然なかった。完ムシどころか関心ゼロの態度を貫き、まるでその場に空気以外何もないかのように振る舞っていた。それが気に入らないと文句を言ってきたら、ここぞとばかりに言い返してやろうと思っていましたけどね。

だってもうあれから10年が以上経ち、私も稀代のいじめられっ子から成長したのよ。今やあの連中より背が高いし、男女構わずでかい声で喋り、他人のジョークでケラケラ笑う。むしろあっちが「なんで普通の顔して来てんの?」とびっくりしていたわよ。はははは。



こんな自分の変貌ぶりには私も驚いているほどで、あのころ幾度となくいじめの相談に行っていた先生にも「君は誰?」と言われ、フルネームで名前を言うと一瞬フリーズしたあと仰天された。言葉には出なかったけど、「あの根暗ないじめられっ子が!?」と思っていたのは間違いない。性格が根暗なのは変わっていないけど、今や髪も染めてピアスも開け、表情も明るくなってよく笑うようになりましたからね。あの先生は私の笑った顔など一度も見たことがなかったんじゃないだろうか。

「先生、人は10年で背丈もメンタルも成長するんですよ」とにこやかに言い、ピース姿をスマホで撮ってもらった。私もあのころから格段に成長しているんだなぁ~としみじみ思った。



最後に今の仕事に関して「なんで臨床心理士になろうと思ったの?」と聞かれたのだが、言うまでもないじゃないですか。この当時の経験が現在の仕事に繋がっているんですよ。稀代のいじめられっ子でもいい、せめて他人の苦しみがわかる人間になりたいと思ったから心理学の道に進んだのです。

……と思ったが口には出せず。「勉強嫌いの私でもこれなら勉強できるかなーと思って」と誤魔化した。小学生時代の先生(の一部)はホントに親身になって相談に乗ってくれた。まだそのことを自分の口から言えず、お礼が言えなかったことを少し後悔している。いつか笑って言えるようになりたいけど、それはまだちょっと難しいかなぁ。




それ以外はそれなりに楽しくて、よく食べ、よく喋り、よく(ウーロン茶を)飲んだ。当時は真面目な男子だったはずが、こんなノリだったっけ!?と扱いに困る謎のテンション男に変貌していたり、活発で誰からも好かれる優等生女子だったはずが、なぜか私も驚くネガティブに陥っていたり……と10数年で人は変わるものだと改めて思った。そう考えると私の変化もそう驚くことではないのかもしれない。

小学生時代の同級生には保育園のころから一緒だった人も何人かおり、酒が入って緊張が解けてくると久々に「〇〇(名前)ちゃん」などと呼ばれ、全身がむずがゆくなった。オマエ、今までそんな呼び方してなかっただろ!? 酔っぱらって保育園時代の呼び方を持ち出してくるんじゃねーよ!

男女問わず私のことを「〇〇ちゃん」と呼ぶのは、自分の親戚か、保育園が同じだった人か、学校の一部の先生か、それぐらいのもの。親戚を除くと10人ぐらいしかいないのではないか。それ以外は苗字か別の愛称で呼ばれている。なので「〇〇ちゃん」と呼ばれると自分が小さい子どもに戻ったような気がして嫌なんだよね。誰のことですか?とつい言いたくなってしまう。





次はまた5年後ぐらいに開催されるのかな。そのころにはリア充になっていればいいと思うが、それにしても5年後というともう30か……。やだなぁ。見たくない現実だ。


5年前、成人式と同日に開催された同窓会ではうまくみんなと喋れず、「次は後腐れなくみんなと会いたい」と願った。今回はめでたく(?)その願いが叶い、なんとかみんなの輪に溶け込んで男女問わず盛り上がることができた。次はそうだな、今度こそリア充になってみんなと会いたい。心のトゲトゲと黒いオーラを引っ込めて、現実世界が充実した真っ白な私になって(?)みんなに会おう。




なにしろ次の開催は(おそらく)5年後だ。今ならなんとでも言える。

まずは心のトゲトゲを失くす方法を探すとしよう。どうすれば角を丸くできるのだろう。元同級生に相談したところ、「ヤスリで削ればいい」と真顔で言われたのだが、心のトゲトゲを丸くするヤスリなんてどこに転がっているんでしょうね?


2015年4月23日 (木)

引きこもり体質

新しい職場で3週間目を迎え、なんとなく仕事の流れが掴めてきた気がする。だが、まだまだうっかりミスが多く、「1つ憶えると0.5忘れる人」と自称している。(だからといって何の言い訳にもならないのだが……)



現在も週6日で仕事に出ているが、それ以外は家に引きこもっている。丸ごと休める1日は当たり前のように昼まで寝ているし、家から一歩も出ず、誰とも会わない。知り合いからメールが来ただけでキレる。もともと私は学生時代から引きこもり体質である。

新しい環境に移るたびに今度こそ脱却できるかもしれないと期待するのだが、これまでうまくいった試しがない。どれだけ仕事が忙しくなろうとも、なんだかんだと引きこもる時間を見つける才能はある意味すごいと思う。



先日、自分がなぜこんなに必死になって働いているのか、理由がわからなくて悩んだことがあった。しばらく考えた結果、どうやら私は引きこもらないために働いているらしいと結論を出した。仕事という口実をつけて外に出なければ、私はひたすらひとりで部屋に閉じこもり、食事も買い物も面倒でいつか飢え死にするでしょう。そうなっていないのは、ひとえに私が仕事に就いて週6日は無理やり外に出ているからである。

ちゃんと毎日ご飯を食べているのも、仕事に出てお腹を減らし、帰りに何か買って帰ろうと意欲的に考えるからである。そうでもしなきゃ本当にご飯を食べない人なんだよ。前の職場にいたとき決めていた「食事は300円未満」ルールがいまだに根付いており、300円以上のものを食べようとすると身体に拒否反応が出る。「貧乏性」というのは本当に困った体質だ……。


資格を取ったことも、仕事に就いていることも、自分が引きこもって死ぬ可能性を失くすためだと考えれば納得できる。だって私は子どものころから人付き合いが死ぬほど嫌いで、今もできるだけ誰とも関わり合いになりたくないと思っている。こんな人間が仕事に就き、社会に出ていること自体が不可思議なのである。

だが、社会に出なければ私はおそらく物理的に死ぬ。「面倒くさいからご飯を食べない」が難なくクリアできる人だから、ダイエットどころの話ではなく本気で命に関わる。こんな人を「お腹が減ったから何か食べよう」という気にさせるには、やっぱり外に出て仕事をして身体を動かす必要がある。300円ルールもそろそろ撤廃しないと栄養失調で倒れる気がするんだがな。



ありがたいことに、今の職場はかなり身体を動かしてカロリーを消費する。となれば、食べる量も必然的に増えるだろうと期待している。スーパーに立ち寄るついでにどこか他の店も覗いていこうという気になればいいんだけどな。仕事で疲れるとついつい引きこもる時間を求めて真っ直ぐ帰宅しちゃうんだよね。

万年帰宅部の私に言わせれば、仕事帰りに寄り道するのもひとつのスキル。仕事で外に出るならともかく、それ以外のプライベートな時間を外で過ごすのは無駄に思えてくる。こうしている間にも家で引きこもる時間が減ってしまう、と考えると外出自体が時間のロスだと思ってしまう。こんな人はどうやったら心置きなく外で出られるのでしょう?



人間というのは社会の中で生活する生き物だから、私のような奴は無理やりにでも外に出ないといろんな感覚が鈍ってくる。

今に始まったことではないが、朝の目覚まし時計に起こされるたび、「こんな生活がいつまで続くんだろう……」と引きこもり体質の自分が顔を覗かせる。だが、自堕落な生活に甘えて好きなだけ家に引きこもると、私のような奴はすぐ駄目になる。死にたくないなら仕事に行け!といつも自分の尻を叩いて行かせているのだが、逆に言えばそうでもしないと社会生活を営んでいけないということである。
……我ながら面倒な人間だと思う。



このたびの資格取得の何が嬉しかったかって、学会で別の都道府県に行くことが増えるから、さぞかし外出の機会も増えるだろうと期待できたこと。で、気が変わらないうちに5月と9月の学会に参加を決めた。

これも「えー、もういいじゃん、面倒だし」にならないよう、しっかり自分の尻を叩いて管理してやる必要がある。なぜだろうな、自分自身のことなのに、ときどき小さい子どもをなだめているような気分になる。私の中には大人の自分(自制心)と子どもの自分(本性)がいて、サボリ癖のある子どもを大人がアメとムチで言うことを聞かせているのかもしれない。だけど、本気になれば大人より子どもの方が強いでしょう。本気で引きこもったら自制心なんてそっちのけになるだろうし、だから命の危険があるんだよ。




こういう人がよくもまぁ、なんだかんだ言いながら社会の中で生きていられるものだと思う。しかもこれでも臨床心理士って、本当に大丈夫なのか。仕事で関わる人の中には、私よりひどい引きこもりの人がいる。そんな人たちに同情とはいかないまでも、家に引きこもっている間の安心感のようなものは理解できる。……何度も言うが、私は引きこもり体質ながら週6日は仕事に出ていますからね。


私は地球上のどの大地よりも自分の部屋が好き。ここが一番安心できるし、時間さえあれば何時間でも引きこもっていられる。ご飯なんて食べなくていい。水分補給もしなくていい。そう考えて休日に何度倒れかけたことか。

親や兄弟など、身近な人に迷惑をかけない程度には自分の部屋に引きこもっていいと思う。それが自分にとって大切な習慣なら無理にやめる必要はない。だが、もし本心からやめたいと思っているなら行動を起こさなければならない。いつまでもグダグダと甘えていたら引きこもり体質を脱却する日は永遠に来ないぞ。

私は自分にも他人にも迷惑をかけない程度に引きこもっている。私は片付けも掃除も嫌いだから、そもそも部屋に物を置かず、散らかさないようにしている。だから私の部屋はどこよりも質素で、配置物が少ないのが特徴。だって片付けが嫌いなんだもの。物が多いと片付けるものも多くなるでしょ。




あー、できれば1ヶ月ぐらい外に出たくない。だが、そんなことをして最終的に困るのは他でもない、自分である。こんな人が引きこもり体質を脱却する日はいつか来るのだろうか。


まぁ、今はとりあえず……。

死なないために頑張って仕事に行けよ。ってことですね。


2015年2月19日 (木)

四半世紀

本日2月19日は、暦の上では「雨水」。

そろそろ気候が春らしくなり、降る雪が雨に変わる時期という意味らしいが、まるでその意味を文字通り示すかのように地元では冷たい雨が降った。



……で、ほとんど忘れかけていて「そういえば何かあったな」と考えて思い出したのだが、今日という日はなんとも恐ろしいことに自分の誕生日である。早生まれだからと同級生より若い気分でいたが、私もとうとうみんなと同じ25。ああ、また生産的なことを何もせず歳を取ってしまった。

この歳になると誕生日はもはや嬉しくない。絶望と焦燥感に苛まれる日でしかない。なのであんまり認めたくなかったのだが、Googleのトップページのロゴが誕生日仕様になっていること、またゲーム内のポケセンがわざわざご丁寧に祝ってくれたことで決定的になり、やっと認める気になりました。全然嬉しくないんだけどね!!


驚いたことに、自分の周りには同じ誕生日の人が2人もいる。その内のひとりには今日会えたので「ハッピーバースデー」と伝えた。あと、好きな声優さんも実は同じ誕生日。ご生誕おめでとうございます。他人には素直におめでとうと言うことができるんだよな。





それにしても、25年。長い。四半世紀である。


うわ……なんかそう書くとすごく嫌だな。

そうか、1世紀の4分の1を生きたのか、この私は……。







この年をどんな年にしたいか。

今年こそいいことありますように。……と毎年祈っているが叶う兆しはない。うーん、どうせ叶わないなら、「考えるのをやめよう」と近ごろになって思う。考えても考えても、答えが出ない問いはいくらでもある。布団の中で自分の考えに没頭し、頭が冴えて眠れない日もたくさんある。だが、それは睡眠時間を犠牲にする価値のある問いなのか?と考えると全然そんなことはないし、私の悩み事などちっぽけで独りよがりで眠る暇を惜しんで考えるべきことではないと思う。


……さらっと書いているが、そう思うまでには相当な時間と労力が必要だった。現在の自分の生活はけっして恵まれているとはいえないため、日々悩み事は尽きない。なのでそれを悶々と考え続ける日々が続いていたが、そろそろ考えることにも疲れてきた(悩むのにもエネルギーが必要なの)ため、ふと思い立って現在の悩み事をひとつずつ箇条書きしていったら、すべて自分の独りよがりな悩みで他人にとっては毒にも薬にもならないものだった。こんなもので私は馬鹿みたいに悩み続けていたのか……と少し反省。




たとえば、悩み事が「私は不幸だ」というものだったりする。

そうなると禅問答のテーマは、「私が不幸な理由」と「不幸じゃなくなる方法」。一度テーマが決まったら、次はこれについて悶々と考え続ける。布団の中でも、入浴中も、食事中にも考えている。下手したら夢に見ることもある。当然ながらこの問いに答えはないし、答えようと思えばなんとでも答えられる。私が不幸な理由なんてひとつずつ挙げていったら本が一冊書ける。



こういう馬鹿馬鹿しい悩み事で時間を無駄にするのはもうやめである。

この問いに眠れないほど考え込む価値がどこにある? ないだろ、と思う問いに関してはポイッと捨てることにした。言うなれば悩み事の断捨離。それが生誕四半世紀の私の目標。




余計な悩み事に時間を割くのは自分がヒマな証拠だろう。もう少しまともな悩み事をすればいいのに……。自分の心配、自分の悲嘆、自分の将来の懸念ばかりで他人のことなど二の次である。自分にばかり心配をかけていられるのは私が心底ヒマな人間だからだと思う。

頭と心の空洞が広すぎる。要するに中身が空っぽ。なので、空いている場所を余計な悩み事で埋めようとする。悩み事がない人は自分から悩み事を作ったりする……のだろうか。それってどんだけヒマな人なんだ。


ちょっと前まで私は「魔物化する一歩手前の人間」だと自称してきたが、実際に魔物化するにはあまりにも空っぽすぎる。いや、ちょっと待て、こんな人が悩み事の断捨離なんかしたらますます空っぽになるのでは?

自分で言うのもなんだが、私はプライベートをもっと充実させるべきだと思う。そうすれば空っぽの頭にも少しは知恵が回るかもしれない。このままだと脳のシワがほぐれきって完全なバカになる。


……あ、なんか「オズの魔法使い」のカカシに親近感が湧いてきた。
空っぽの頭に知恵を入れるには、まずリア充になろう。うーん、しかしそれは無理難題すぎる。そんなことが簡単にできるかい。竜巻に飛び込んで違う世界に行く覚悟がないと駄目なのか……? 空っぽの頭を埋めるのは難しいですね。


2015年2月 5日 (木)

同僚に打ち明け話

職場で仲良くしている人(同僚といっても年上女性)に、今日初めて自分が念願の資格を取ったこと、それを活かせる仕事を探していることを打ち明けた。

「あのー、実はそのー、職を探しているんです、今」
……という(なんとも煮え切らない)言い方。

で、最初はなぜか怒られて焦ったが、そのあと泣かれた。


暴力的な方法以外で(?)、他人を泣かせたのは初めて。「なんで泣くんですか!?」と本気で焦った。ショックを受けるならまだしも、なぜそんなに泣くやら鼻水まみれになるやら……わけがわからん。

他人の心の機微に鈍感でホントすみません。「そんなん寂しくなるわ~」と言われてようやくわかったが、私はあの職場でいなくなると寂しがられる人間らしい。いなくなったら困る人らしい。目の前で泣かれて初めてそのことに気付いた。
なんていうか、そのー……。それが本当だとするととても嬉しいことではないか?


もちろん、就職活動がうまくいかず、現在の職場に留まることは大いにあり得る。今はまだ「そうなるかもしれない」程度の話であり、本人にもそう伝えた。それでも泣かれるっていうのは……。私ってもしかして……とても幸せ者なのでは?
(こんなことを言っている自分が信じられないのだが)



資格取得は12月、就活は1月からしていたのだが、今まで誰にも言い出せなかった。その大きな理由は、就職できなかった場合に恥ずかしいからである。だが、だからといって今の職場に勤めながら別の職を探すのは、周りの人を騙している気がしてならなかった。

とりあえず責任者に言うのはあとにして、自分の仲良い人にだけは言っておこう……と決意してから、一体どれぐらいの日が経っているのやら。心は決まっていても実際に口にするのは本当に難しかった。だって、デカい口を叩いて実際に就職できなかったら恥ずかしいし。今も本当は恥ずかしいんだけどね。これで就職できなかったらどう言い訳すればいいのやら……。女をひとり泣かせた以上、やはり本気で就活に取り組まなければいけないということか。



今の職場の人たちは、(一部を除いて)こんな私にすごく良くしてくれる。一緒に食事に行って、何時間も同じ店で喋りまくることもある。その職場を離れるのはものすごく寂しい。あれで給料さえ良ければ残るんだけど、自分の将来を考えた場合、苦労して取った資格を活かして人並みの給料がもらえる仕事に就きたいと思う。



……なのだが、目の前で泣かれるとやはりつらかった。

黙っててごめんなさい。
あれだけ泣かしておいて、就職できなかったらさらにまたごめんなさい。
そうなったらもう本当に情けない限りです。土下座します。


予期しない相手の反応に本気で戸惑ったけど、それでもなんか嬉しかったし、崖っぷちの就活を頑張る意欲が出てきた気がする。あの職場から私がいなくなったとき、寂しいと思ってくれる人がたったひとりでもいることがわかったからかな。それとも同じ日、たまたま大学院の先生に電話する機会があり、「現在は書類選考でも落ちまくっている状況で、メンタル的に追い込まれています」とはっきり声に出せたからかな。



サヨナラ……が来なければいいと思っている。

だが、サヨナラが来なければ私は新しい未来に行くことはできない。


いつか今の職場のすべてにアリガトウが言えるように、もうしばらく現在の仕事と就活の両立を頑張ろう。近ごろ様々なことがうまくいかず、メンタル的に追い込まれ、ネガティブの権化と化した私に爆裂パンチをかましてくれた同僚に感謝する。


……うわー、別離の日(来ればだけど)にはお互い泣くだろうなー。


2015年2月 1日 (日)

働かざるもの

うちの祖父が入院中で明日の命も知れないとか、イスラム国で2人の人質が案の定殺されたらしいとか、自分の周囲ではいろんなことが起きているが私には注意を払っている余裕はない。今はとてもじゃないが、自分以外の人に関心が持てない。我ながら珍しいことである。

大げさな表現だが……実のところ明日の自分の身さえ危うくなっている。
私はものすごく小さいころから、自分のことを客観的に見る癖がついている。だから思うのだが、現在の私は本当にいろんな意味で危うい。とうとう恐れていた2月になり、明日にでも死ぬかもしれない。そんな状態で、身内はもとより赤の他人の死を気にしているゆとりすらない。(誠に申し訳ないが、冥福を祈る余裕すらありません)





今の私はとんでもなく悲観的で、攻撃的で、引きこもり体質である。そんな状態が去年の2月から継続しており、おお……当時の懸念が現実のものとなり、去年の状態から何も変わらないまま丸1年経ってしまった……という絶望が身を裂くように感じられる。

こんな私にも、まもなく25歳の誕生日が来る。四捨五入するともう30。平穏無事どころか、なんにも変化がなく単調な25回目の誕生日がもう目前。かつての友人は結婚してもうすぐ子どもが生まれるというのに……。私はなんのためにこの変化のない退屈な日常をグダグダと過ごしているのだろうか。

まぎれもない時間の無駄だ。




でかい病気が見つかるとか、別の国にさらわれて惨殺されるとか、そんな目には遭いたくないが、あまりにも日常に変化がなさすぎるのも問題である。こんな自分にも趣味はあるし、それに従事していれば時間を潰せるが、それでもときどきふと手を止めて考えると、先がまったく見えない無力感と絶望感に苛まれる。

自分がこういう状態になって初めて気付いたが、こういうのをこじらせると、たまたま目についた通行人を退屈しのぎに殺したり、友人に毒を盛ったり、人間はそういう行動に走るのではないかと思う。毎日が充実した人(リア充)には絶対にわからないと思うが、一部の人間にとって変化がない日常とは本当に耐えられないものである。単調で変化がない日常にドキドキするハプニングを求め、それに他人を巻き込んだ結果、ああいうことになるのではないかと思う。


毎日が忙しくて休む暇がない人も、その毎日が充実していなければ「退屈な日常」である。私も仕事をしているし、毎日が暇なわけではないが、充実感がないとやっぱり退屈である。充実感を感じられる何かで毎日が忙しければいいのだろうが、そんなもんそう簡単に手に入るとは思えない。近ごろときどきニュースで見る人々は、その「充実感を感じられる何か」が殺人や傷害に繋がった人だろう。いくら日常を充実させるためとはいえ、他人を巻き込むのは問題だと思うけどな……。(私にもそう思うだけの分別はあります)




変化を求める努力をしていないわけではない。だが、私はたぶん早急な見返りを求めすぎている。手間暇をかけた見返りはもっと時間をかけたあと受け取るものだと頭でわかっているが、心はさっさと見返りをよこせ!と姿の見えない誰かに怒りをぶつけている。


それにしても、2月……。怖いなぁ。自分の誕生月だから余計に怖い。また変化がないまま歳を取ってしまう。単調で変化のない日常を続け、ヨボヨボの年寄りになるのは嫌だ。こんなことを続けるぐらいなら、もういっそ次の人生に望みを託すか……などと考えてしまうから、自分の今後が本当に心配。申し訳ないと思いつつも、今の私に他人の死を悲しんでいるゆとりはない。他人に関心を持つ暇さえもない。




近ごろの私は、ストレス性の腸炎を発症し、(別にこれが理由ではないが)必要最低限の食糧しか食べなくなった。働かざるもの食うべからず、というだろう。自分の人生になんの働きもしていない私に、常人と同じ量の飯を食べるのは許されない。……というある意味で自虐的な考えに駆られ、あんまり食べ物を口にしなくなった。

まぁ、こう書くとまるでとんでもないことをしているように聞こえるが、この程度では人間は死なない。摂取する量が減ってむしろ健康なぐらいだ。私のように自分のために頑張って働いていない者は、少ない量でも食べていられるだけ幸運だと思う。





先日の職員健診では鉄欠乏貧血がさらに悪化し、中性脂肪が半年で56→38と激減したことで間違いなく再検査(もしくはカウンセリングか)になると思われるが、自分の日常が充実している、自分の人生のために働いていると思える日が来れば、食べる量を増やして贅沢しようと思う。今はまだ、自分がたくさんの食べ物に相当する働きをしているとは思えない。贅沢しようにもそのお金が手元にないし、したくてもできないのだが。




あともうひとつ、余談だが私の頭を悩ませることがある。自分に足りないものを補い合い、余ったものを分け合える。……どこかの携帯会社のCMではないが、そういう人が近くにいれば幸運だろうと思う。私は余計なところは充足(?)しているくせに、肝心なところが決定的に欠落している。だから誰かと過不足を埋めるのは難しいだろうなーと思っていたのだが、それでもどうしても他人に期待してしまうのである。

仮にもし、そういう人が見つかればそれは奇跡なのだろうか。私は他人が思うより偏屈で、堅物で、扱いづらい人間である。そんな自分と過不足が補える相手……。その人の都合や事情はともかく、仮にそんな人と巡り合えたらそれは奇跡だろうか。



幸せになるのは難しいなーと、ひしひし感じる2月1日である。


自分の中の鬱屈した気持ちをときどきこうして書かないとキャパオーバーになる。いつか本当に「やらかす」かもしれん。なのでポジティブな記事が書きたいと言いながらも、相変わらずネガティブの権化のような記事を書いてしまう。

こんなブログに足を運んでくださる方々、いつもすみませんね。


2015年1月19日 (月)

雀に蜜柑

反応が遅すぎる気がするが、一昨日17日に阪神淡路大震災から20年が経った。

あのころ私はまだ4歳。弟に至っては2歳である。すぐ隣の県に住んでいるくせに、当時は寝ていて記憶がない。地震のニュースはテレビやラジオで連日報道していたはずだが、例によって記憶がない。それは私が4歳だったからというより、外の世界にまるで興味がなかったからだと思う。


親から教えられた話では、阪神淡路大震災では特に火災に遭って亡くなった方が多かったと聞く。瓦礫の下敷きになり、逃げることもできずに炎に巻かれて死ぬ恐怖とは如何ばかりか……と考えると背筋が寒くなる。過去に『はだしのゲン』を読んだときにも戦慄したが(確か瓦礫の下敷きになって焼死するシーンがあったはず)、それはもう想像を絶する恐怖だっただろう。

あの当時、ぐっすり寝ていた4歳の子どもが言ってもなんの説得力もないが、震災で犠牲になった方々のご冥福を祈ります。







……さて、そんな現在24の私の状況といえば、マンネリと呼称していいほど何も変わらない。良くもならず、かといって悪くもならず、なんだか同じような時間がグダグダと過ぎていくだけ。まだ24なのに暇を持て余して何をやっているんだ!と周囲から非難の声が聞こえてきそうだが、私は別に仕事もしないで遊んでいるわけではない。これでもちゃんと仕事はしています。だけど目下求職中です。(今の職場は給料が安いから)


私の何が駄目かって、現在のヤバい状況を本気で楽しんでいることだと思う。3食まともなご飯が食べられず、栄養失調で何度か倒れかけ、もはや1年近く底抜けの靴を履いている状況だが、私はそれを改善しようとせず(文字通りの意味で)現状維持している。

普通の人の感覚なら、なんとか頑張って美味しいものを食べようとか、新しい靴を買おうとか、そういうマトモなことを考えるのだろう。だが、私は完全に自分の生活を楽しんでしまっているからなぁ……。まともな食事は夜しか食べないとか、就寝前の2時間しかストーブは点けちゃダメとか、衣服や靴は破れるまで使うのが当たり前とか、もはや極貧を通り越して苦行の域に達しているのではないかと思う。




まぁ、そこまでやらなくても生きていけるのかもしれないが、自分の収入あれこれのことを考えると、やはりこれだけやらなければ将来やっていけないと思う。現在、私が苦行レベルまで生活を切り詰めるのは、ひとえに自分の将来の投資のためである。今はまだ、やりたいことがやれているという気持ちには至っていない。いつか自分がやりたいことがやれるチャンスが巡ってきたとき、金銭面で躊躇してしまうのは避けたいと思う。気力充分でチャンスが巡ってきた!だけどお金がない!……なんて展開は悲しいだけである。

その実現がいつになるかわからんが、いずれ巡ってくると信じたい「いつか」のため、私は生活を切り詰めて小金をコツコツ貯めている。今はちっぽけな積立金であるが、いつかアバラが浮き出るほどガリガリに痩せた甲斐があったと大声で言える日を夢見て、これからまだしばらくは苦行並みの生活を続けねばならぬであろう。そんな日がいつ来るのかねぇ……。



こんな私のような奴は、たぶんどれだけ収入が上がっても現在の極貧生活を改めないと思う。お金はいるんだけど実はいらないというか……。いくらお金があったって自分のために使うのはまだ早いし、夢を叶えたときその収入でおもいっきり贅沢がしたい。まだ夢のカケラも叶えていないくせに、自分のために金を使うのはあまりにもおこがましいと思う。


もともと安い給料だが、切り詰めて切り詰めて、自分が死んでしまわない程度に生活できるならそれでいいのではないだろうか。私には自分を苦行レベルまで追い込んでも叶えたい夢がある。周りからどれだけ非難を浴びようとも、やっぱりそれだけは忘れてはいけない。

現在の職場も、人間関係も、自分の身体も精神も、すべて犠牲にする覚悟で夢に向かって努力し続けなければ、たぶん私に明るい未来はない。ときどき不安のどん底に落ちて、夜も眠れないほど自分の今後に絶望することもあるけど、それでも通帳に積み立てているお金をいつか使う日を夢見て、けっしてこんなところでくじけるわけにはいかないのである。






3食まともなご飯が食べられなくてもいい。
底が抜けた靴を履き続けてもいい。

そんなことしなくても別に命まで取られないんだからさ、死地ギリギリのところで夢に向かって頑張るオレってかっこよくね?……と、本気でそう思っているのである。そりゃー、現状維持しようって気にもなるでしょ。もっと真面目に人生を生きろ!と周囲から非難を浴びても仕方ないでしょう。









……最後にタイトルの意味ですが、慣用句とはなんの関係もなく、私が年明けからはまっていることです。花壇の低木の枝に半分に切った蜜柑を刺しておくと、近所の雀が食べにくるんだな。きっかけは大雪が降った1月1日、こんな日でも餌を探しにきている雀に同情し、人間用に買った蜜柑を分けてあげたこと。小さな雀が枝にとまり、くちばしで蜜柑をつついて食べている姿は本当に可愛い~のである。


私にも誰か蜜柑を分けてくれる人はいないものかね。








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2014年12月31日 (水)

今年もありがとう

今朝の新聞を見て、今日が大晦日だということに気付いた。

歳を取るごとに時が経つのが早く感じられる。
あ、『ガキ使』見なきゃ。


嫌だなー、来年になったらまた1つ歳を取っちゃうじゃん。
今となってはそういう認識でしかない。悲しい……



自分と同年代の子とはほとんど音信不通で、どこで何をやっているのかまったくわからない。たぶんみんな就職して、結婚して子どもがいたりするのだろう。私のように人生に迷走している奴はひとりでもいるのだろうか。モヤモヤしているのは私ぐらいじゃなかろうか。そう思うから誰かと連絡を取る気にならないし、同窓会にも行く気にならない。(そもそも誘いが来ないのだが)

行ったってどうせ嫌な思いをするだけだよ。




今の状態を、「下積み」といえば聞こえはいいと思う。だけど、何か自分らしいことをやってるって気持ちではないんだよね。何か間違ってる、何かが違う、こんなはずじゃなかったってそんな気持ちばかりで、誰か別の人の人生を生きているみたい。

1年前はまだここにいたはずだが、本来の「私」はどこに行ってしまったんだろう? 今はなんだか自分が別人みたいな気がする。価値観も、見ている世界も、話し方も考え方も、なにもかも別人のもののような気がする。




そう思い始めたのは、確か今年の2月。それからず~っと別人のような気持ちのまま生きていた。っていうか、あれからまだ1年も経っていないのか。じゃあまだ本来の自分がここに戻ってくる可能性はある。まさかこのまま別人になったままではない……よね。



なので、来年の抱負は特にない。

来年こそは来年こそはと思うのにも疲れてしまいました。
抱負などというご立派な現実逃避に頼るのもやめにして、目の前の貧乏生活をなんとか脱却することを目標に生きていこう。そうでなければヤバい。本当にヤバい。冗談じゃなくいつか本気で死ぬかもしれない。服や靴が買えないレベルはとうに過ぎ、最近では目に見えて自分の身体が痩せていくのがわかる。



……しかし、こんなになっても根が丈夫でバリバリ健康なのが腹立つ。どこか身体に故障でもあれば援助してもらえるかもしれないのに。どこにも悪いところがなく(悪いのは目と性格)、他人に助けを求める理由が何もないことがなんとなく不公平だと思う。

それに比べたらアルツハイマーの祖父なんて、老い先短いのに至れり尽くせりの生活を送っている。家族と社会福祉の職員(?)が総出で祖父の機嫌を取っているし、あんなもん完全に税金の無駄遣いだと思う。私などその日食べるものにも困っているのに、ジジイはベッドの上で寝ているだけで規則正しく食事が出てきて、暑いだの寒いだの言うだけで誰かがハイハイと従ってくれる。服も着替えさせてくれるし、風呂にも入れてくれる。そのくせ本人は感謝するどころか偉そうに命令ばかりしている。

あの祖父を放置すれば、保護責任者遺棄罪で家族が逮捕される。だが、仮に私が餓死したとしても誰も罪には問われない。なんだこの違い……。そんなに待遇が良いなら私だって病気になりたいわ。健康でいることが馬鹿らしいわ。今となってはもう、まっとうに働くのが嫌で生活保護費をかすめ取ろうとする人の気持ちがわからないでもない。




……いや、私自身、生活保護を受けるぐらいなら餓死する方を選ぶけど。

大丈夫です。まだそこまで追い込まれてはいません。






今年、あと言い残したいのはひとつだけ。




来る日も来る日も、ネガティブ全開の記事を読ませてすみませんでした!!


……訪問してくださる方々に本気で謝りたいと思います。
すみません……本当に。


来年はポジティブな記事が増える……といいな。

無理だろうけど。(ボソッ)







ともあれ、今年も残すところあとわずかです。


いつも訪問してくださる方々、たまたま何かの縁でお立ち寄りくださった方々、皆さん本当にありがとうございました。また来年もネガティブで気が重くなる記事ばかりになるでしょうが、管理人はそんなもんどこ吹く風とばかりに更新をやめる気はありませんので、ちょっと久しぶりに来てみたら状況が変わっていて驚くかも……いや、そんな希望的観測はしないでおこう。





来年もどうぞよろしくお願いいたします。


大人も子どもも、善人も悪人も、人類もそれ以外も、海も大地も宇宙も、万物が等しく新しい年を迎えることができますように。




2014年12月25日 (木)

聖夜の考え事

皆様、メリークリスマス。

予定があった人もそうでなかった人も、全人類に等しく聖夜が訪れますように。



ちなみに私は予定がなかった人です。今日の夕方、ケンタッキーの店前に行列ができているのを見てイブだと気付きました。ノンプライベートの私は夜の9時までバイトで、さっき帰ってきたところです。クリスマスなんて祝う余裕もお金もございませんわよ。

あ、でも給料日より1日早く給料(薄給)をもらったことが一番のプレゼントでしょうか。これで何か温かいものでも買いなさい……とサンタに言われている感じ。
そういえば今日、弟に「年末ジャンボ宝くじ買った?」と言われたが、あれは嫌味だったのだろうか。1枚300円の宝くじなど今の私にとっては高級品。そんな金があれば穴が開いた靴を買い替える積立金にしとるわい! 日ごろの恩返しとしてあんたが私に買ってくれてもいいんじゃない!?

この歳になってサンタに新しい靴を頼むのもどうかと思うので、頑張って働いて買います。それ以外で個人的な願いを言っていいのなら、遅々として進まない私の就職活動に良い兆しがありますように。……それもできるだけ早く。来年3月中に決まらなかったら本当にスマホに機種変することになるよ。


サンタ様、キリスト様、どうかお助けください。
乃銀は来年こそいい子になります。








近ごろの私といえば、とある本を読んだことがきっかけだが、以前より「人間観察」をするようになった。ただ眺めているのではない。視線の先にいる人が他人を幸せにしているかどうかを見ているのである。


自分の身近な人を大切にすることはもちろんだが、たまたま道で会った赤の他人を幸せにしているかどうか、私はそこに注目して通行人を観察している。通行人でなくてもそこらにいる店員や警備員、運転手やバイトの学生、そのほか専門職の人々など、外にはいろんな人間が溢れている。そんな人々が誰かに「ありがとう」と言われるような言動をしているかどうか、近ごろの私はそんなことが気になって気になって仕方ないんだよね。



前から思っているのだが、この世の中で他人を幸せにすることほど簡単なことはないと思う。私はこれの何が難しいのかわからない。なんら見返りを期待せず、相手がしてほしいことを実際に行なうこと……の何が難しいというのか。みんな、やらないから難しいと思うだけなんじゃないの?

本当に難しいのは自分を幸せにすることである。心から幸せだなぁと感じられる人がこの世界にどれだけいるというのか。いつでも自分、自分、自分、自分、自分が幸せになるために生きているから、この世界は優しくないのだと思う。



他人を幸せにすることは、その気になりさえすれば誰にでもできる。お金も時間もいらない。具体的に何をすればいいかって? 説明するのも馬鹿らしいが、他人から「ありがとう」を言ってもらえる行動をすればいいんです。もちろん言ってもらえない場合もあります。こちらの気遣いがまるで当たり前のように振る舞われ、イラッとすることも当然あります。
まぁ、それでもめげずに他人を幸せにすることですね。

数年前に自分が経験したこと。道を歩いていて、目の前で鍵を落としたおばあさんに、肩を叩いて「落ちましたよ」と拾った鍵を手渡した。すると、おばあさんは「ありがとう、これがないと家に入れないところだよ」と何度もお礼を言ってくれた。
他人を幸せにするって本当にこんな単純なことで、大抵は考える間もなく行動している。普通、「お礼を言ってもらおう」なんて見返りを求めて他人を助けたりしない。それではただの自己満足です。目の前で鍵を落とした人がいるから拾った、困っている人がいるから助けた、お礼や感謝は欲しがらなくても勝手についてくるものです。




そんなことを思いながら日々観察しているのだが、自分が期待するような人はあんまりいません。「仕事だから」と親切に接している人はいるが、自分に求められる仕事量以上に他人に尽くそうと考える人はほとんどいない。良くも悪くも「仕事だから」なのだろうなと思う。

そういう意味では、私のような奴は何者にも縛られず、何者にも影響されず、自由に振る舞えるから得なのだと思う。自分の行動の動機に「仕事だから」を挙げるほど仕事していないし、満足な給料などもともともらっていない。目の前で困っている誰かを助けるにしろ、「恥ずかしい」とか「誰かに見られているのではないか」とか思うことがない。
他人を幸せにできない人は、自分の関心が自分にしか向いていないか、もしくは社会的な評価を気にしすぎているのだろう。「他人を幸せにしている自分」に耐えられない人は、どれだけ頑張っても実行できません。そういう人も自分に関心が向きすぎているといえるな。


自分が困っているときに助けてほしいと思うように、他人も同じことを思うのである。感謝されることを期待して助けても他人が困るだけだが、自然に、本当に自然に他人を幸せにしたとき、おもわず心の底から「ありがとう」と感謝がこぼれるのである。




ちなみに見ていて面白いなぁと思ったのは、歩きながらスマホを操作していて前が見えていない人。前方からやってくる人が次々に避けて歩いているのに、本人はまったく気付いていない。たぶん、そういう人に限って「自分は歩きスマホをしていても他人にぶつからない」と思っているのでしょうが、実際は「他人がぶつからないように気を配ってくれている」のである。

こういう人に他人を幸せにすることは絶対にできない。この世に生きるどんな人も、自分が知らないだけでいろんな他人に支えられて世界に存在している。だが、ここから見える世界に自分自身の姿しか映り込んでいない人に、他人を幸せにできるはずがないのである。







世界の言葉が「ありがとう」と「どういたしまして」だけあればいいのに。
むしろ、それしかなければいいのに。
そうすれば世界は平和になるんじゃないか。


かつて本気でそう思ったことがある。だが、そんなことは不可能である。世界平和なんて夢のまた夢、私が数百回生まれ変わっても実現していないかもしれない。






私だってホントは、他人より自分を幸せにしたい。他人など踏みつけにして自分だけ幸せになればいいじゃないか、と思うこともある。だが、何度そう決意しても、いざ困っている人を前にすると助けざるをえない。不思議なことである。



先に言っておきますけど私は聖人君子ではありません。

目の前の他人を助けてしまうのは、たぶんその人に自分が重なるからだろうと思う。私はこれまで自分を幸せにしてくれる人にはほとんど巡り合わなかった。相手からすれば私はまったくの他人だが、他人を幸せにできる人はこの世界でむしろ珍しい存在だった。だって、私は実際に幸せになれなかったもの。邪魔者扱いや嫌われ者扱いはさんざんされてきたが、自分が幸せになるために努力してもらったことは皆無だった。所詮、人は自分のことしか大事にできないのである。

中学生時代、自転車で転倒して顎を切ったとき、周りに大勢の人がいたにもかかわらず無視され、自力で病院まで歩いていったことがある。当時はまだ携帯電話を持っておらず、誰かに助けを求めるにも手段がなく、自分が本当に困っていることは自分が一番わかっていた。だけど、他人はそれを察してくれない。誰も助けてくれない。あのとき、私は顎からポタポタと血を流していたのに、まるで存在しない幽霊のように通行人から無視されていた。


自分が困っていることを察してもらえない、誰にも助けてもらえない、その苦しみは痛いほどにわかる。こっちは顎から血を流して必死の思いで歩いているのに、道行く人々は目を合わせもせず自分が行きたい方向を目指して歩いている。それはあんたの都合でしょ、こっちだって急いでいるんだ、と言われたらそれまでの話なのだが。


困っている人の心の悲鳴とでもいうのか。それが聞こえるから、たとえ相手が極悪人でも、仮にお礼を言ってもらえなくても、無視して通り過ぎることはできない。彼らの姿が中学生時代の自分と重なって見えてしまう。あのときの心細さ、助けを求めたくても求められない悲しさ、他人にまで経験させることはできない。

私が他人に何かをするときは、その他人に昔の自分を見るときである。そういう意味で考えると、私も結局は利己的で、他人より自分が大事な人である。そりゃそうでしょ、私は誰よりも自分を一番助けてやりたいと思うけど、自分で自分を助けることはできない。そんなときに他人の中に自分を見ると、おもわず助けてしまう。私にとってはそういうものである。






別にいいんだよ。偽善者だとか、ありがた迷惑だとか言っても。

私が好きでやっていることだし。嫌なら手を振り払ってくれてもいいし。だけどたぶん、目の前で困っている人を助けることは、かつての自分を助けることに繋がっていると思う。あのとき誰かに助けてもらっていれば、私は「ありがとう」と言えていただろう。当時の私には「ありがとう」も「どういたしまして」もなかった。せめて無視だけはしてほしくなかったな。


これだけやっても私はみんなの間で嫌われ者なのだから、世の中とはわからないものである。何も知らない人は私のことを「さぞかし友達も多いでしょう」「人生を楽しんでいる感じ」などと評価を下すが、明らかな誤りである。私には生涯を通して友達がひとりもいないし、毎日を生きるのも辛くてとっとと死にたいと思っている。かつての同級生からいまだに見下され、仲間外れにされ、馬鹿にされ、それでも生きる意味はあるのか?と思う。

私にはたった1羽、家族同然に可愛がっている文鳥がいるのだが、あの子が死んだ次の日に自分が死ぬことが密かな望みである。たった1日だけあの子より長生きさせてほしい。そうでなければ私はあの子が死んだあと、味方などひとりもいないこの世界で苦しみながら生きなければいけない。そんなのいやだ。できるだけ早く終わりにしたい。






就職活動もうまくいかない、バイト暮らしで新しい靴を買う金もない、そんな状況で他人を幸せにしている場合か。自分を幸せにする術を見つけて、そっちに向かって頑張ればいいのに。



私は何をやっているんだか。

他人ばかり幸せになって嬉しいことなんて何もない。


自分のことも同じぐらい幸せにできたらいいのに……






中学生の私が今の私を見たらどう思うだろうか。

「ありがとう」って言ってくれたらいいけどな。



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ひとりごと

  • GYAOで『ペット・セメタリー』を観た。ホラー小説で有名なスティーブン・キング原作である。この手の映画はなぜヤバい奴がいるとわかっている屋敷にひとりで踏み込むのだろう。バラバラにされた人体の一部でも降ってきたらどうするんだ!と思ったが、そんなことはなかった。ちなみにペットとタイトルに名がついているものの、結局一番怖いのは人間だと理解した。
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