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2017年4月

2017年4月22日 (土)

どうして雨の日に傘

休憩時間、職場の人たちが「どうしてパワハラが原因で自殺するんだろうね。死ぬぐらいなら辞めればいいのに」という話をしていた。




これは私に向けられた発言ではない。(と思う)

ただ、聞いていた私は複雑な思いになった。



「○○ぐらいで」というのは被害に遭ったことがない人の詭弁である。パワハラのほかにも「いじめぐらいで」「DVぐらいで」という言葉がある。

これを他人に言うならまだいい。私の考えでは、自分で自分にそう言っている人が自ら命を絶ってしまいがちである。


自分に「○○ぐらいで」と言うほどつらいものはない。それで奮い立てる人は別として、自分で自分を責めたり追い込んだりしていいことは何もありません。十中八九なにかの病気になります。

自分でもそう思っているのに、他人から同じことを言われた日にゃ、もう生きる気力なんか微塵も湧いてこない。「パワハラぐらいで悩んでいる自分は弱い人間なんだ。やっぱり死のう」ってなりもする。


私は実際に自殺を企てたことはないが、意見を求められたので「心的苦痛が死ぬよりつらくなったら人は自殺するんじゃないですか」と答えた。これが正しいかどうかは別にして、そう思うのは様々な人の教えがあるからである。










我々の仕事は、相手の重荷を一緒に支え、負担を抱えたままわずかでも楽に前に進めるよう援助することだと思いなさい。…というのは学生時代、教師から言われた言葉である。

我々にできることはせいぜい、人が抱える困難や負担をわずかに軽くすることだけである。それをゼロにすることも肩代わりすることもできない。せいぜい一緒に支える努力をする程度のものである。


私の根源にあるのは今でもこの教えである。

人が自殺企図するほどの苦しみを失くすことは絶対にできない。わずかでもその人の苦しみを共有し、負担を軽くする努力をしなさい。それが自分の信念としてストンと腑に落ちた。



また、「どんなに裕福で恵まれた環境にいても人は自殺する」と、かつて未遂を経験した人に言われたことがある。

今の世の中は、傍若無人で自分本位で非常識な人ほど楽に生きられる社会である。心根が優しく常識的な人ほど損をしやすく、また生きるのが苦痛で仕方なかったりする。それがどんなに(他人の目から見て)恵まれた環境にいたとしても。






まがりなりにもそういう言葉を胸に留めている人間には、「なぜパワハラぐらいで自殺するのか」という質問自体よくわからない。そんなもん、死ぬよりつらいことがあるからに決まっているでしょう。

「逃げればいい」「辞めればいい」なんてのは健康でノープロブレムな人が判断することであり、本気で自殺企図する人間はそんな悠長なことを考えている暇はない。頭の中は「今日ここで死ねば明日は苦しまなくていい」に尽きるのではないかと思う。




自分が死ぬことによって様々な苦痛から解き放たれる想像。これがバラ色に見えるとき、人はおそらく死を選ぶのだろう。

もうあそこに行かなくていい。上司に罵倒されない。先輩に馬鹿にされない。いじめられない。親に隠さなくていい。独りで苦しまなくていい。…なんて世界が目の前にちらついたとき、誘惑に負けるとついフラフラと電車に飛び込みたくなってしまいます。





自殺企図はしたことないけど、ぶっちゃけ希死念慮は経験ある。なので気持ちはよくわかる。今の苦痛から逃れるためなら死でもなんでも選びたくなるよねぇ。


本気で追いつめられている人に「逃げる」「辞める」の選択肢はない。だから周りが強引に辞めさせるとか、苦痛を生じさせている環境をぶっ壊すとか、そういうことをしなければ永遠に救われないと思う。

ベテランになると我々でも実際に環境を変える計画を練ったり、それを実行に移したりするのだが、アマチュアの私にはまだ自信がない。


情けない。






とりあえず仕事柄、私は他者を援助する立場にあるが、実は少しだけ援助される側の要素も入っていると思う。正直ギリギリのところにいる気がする。

だからすごく気持ちがわかるし、共感もできる。それだけにうっかり入り込みすぎると危ない。「自分は専門職の人だから」と割り切って仕事しなければならないこともある。共感はいいけど同情は絶対ダメ。





職場の人たちも同じ援助者でありながら、「どうしてパワハラで…」という発言が出てくるのか疑問である。当事者にとっては「どうして雨の日に傘を差すんですか」レベルの話なのに。


専門職としては限りなく未熟だが、少なくとも人の苦痛がわかる人間でありたい。援助者と被援助者の間をさまよっているぐらいが一番いい気がする。どっちの意見もわかるし、両者の立場に立って話ができるから。









今ある苦しみから解き放たれるために、明日起きて職場が爆破されてなくなっていればいいのに、と願うことは頻繁にある。

つらい現実にいじめられまくっている全国の皆さん、ここにもひとり仲間がいます。職場の焼失や嫌がらせをしてくる人の失踪等、様々なことを願いながら眠りに就きましょう。


おやすみなさい。



2017年4月16日 (日)

なんかかんか

今日は晴れていたかと思うと雨が降り、雷が鳴って雹が降った。



現状は相変わらず。ネガティブ以上、ポジティブ以下。またしても職場の人に「要らない」と言われ、挙句の果てに「パワハラが嫌なら辞めた方がいい」とまで言われた。ショックより先に自覚があることに驚いてしまった。

ちょっと前ならものすごく落ち込んでいただろうが、今はそれほど思わない。「みんなは私の才能に嫉妬しているんだ」と思い込むようにしているから。そうでも思わないと変な病気になりそう。





ネガティブの権化のような管理人がちょっとだけマトモになったのは、去年の12月に祖父が亡くなったことがきっかけである。


別にこれまで大好きだったとかではなく、寝たきりになって病院に見舞いにいったとき、「自分に一番近いのはじいちゃんかもしれない」と思った。たったそれだけである。

食事も寝返りも自分でできない状態になり、私が誰かもわかっていないような祖父を前にして、恥も外聞もなく病室で大泣きしてしまった去年8月。盆休みの時期であった。



ちょうどあのとき、職場の人からの嫌がらせや給料の減額などが相次ぎ、かつてないほど精神的に追い込まれていた。だが、あのとき祖父を前にして、自分は食事もとれて手足も内臓も健康なんだし、こんなことやってたらあかんと思った。

じいちゃんとは一言も言葉を交わせなかったが、あのとき会ったことは自分の人生で大きな意味があったと思う。




それから4ヶ月ほどしてじいちゃんは他界した。肺炎を起こし、家に帰ることも叶わず病院で息を引き取った。


お通夜と葬式の最中、最も号泣していたのは誰あろう私である。ハンカチをびしょびしょにしてしゃくりあげるように泣いていた。思うのだが、私は両親が死んでもこんなに泣かないかもしれない。

葬式の前日(お通夜)も自ら志願し、葬儀場に泊まり込んだ。死人と壁一枚隔てた向こうの部屋で寝ることをそれほど苦とは思わなかった。人間、死んだらそれっきりである。

驚いたのは、参列者が意外と多く、変人と名高いじいちゃんが実は人望があったらしいことである。変人ながらも大勢の人(身内、それ以外含む)から悼まれているじいちゃんを見て、なんかちょっと羨ましいと思った。



それから、自分はこれではいけないと思った。

現状が変わらないだのなんだのと文句を言う前に、なら自分から変わる努力はしてんのか?という話である。私はやたら悲観的になるだけで努力していなかった。理想を抱いてもいなかった。だからたぶん駄目なのだろう。

なにごとも理想から始めていかなければ、現実を変えることなど夢のまた夢だ。職場の人の嫌がらせにも、給料の減額にも、雨にも風にも夏の暑さにも負けず、欲はなくけっして怒らず…と宮沢賢治のような悟りを開かねばならない。右に困った人がいれば助け、左にウザい人がいれば無視するのである。





「パワハラが嫌なら辞めろ」というなら「辞めさせてみろ」と思う。

「死ね」というなら「殺してみろ」と思う。


これまでもそうやってなんかかんか生きてきたのではないか。私はじいちゃんが旅立った世界に行くのはまだ早い。いつか立派になって奴らを見返してやる。





…たぶんであるが、職場の人もかつて先輩や上司に似たようなことを言われてきたのだろう。人間は「目には目を」が好きな生き物であり(アメリカが良い例)、自分が受けた苦痛や屈辱を他人にも味わわせようとする。

虐待を受けて育った子どもが親になったとき、自分の子にも虐待をするのと同じ理屈である。


だから、私がもし後輩を教える立場になったとき、彼らと同じことをしてしまわないように、とひたすらそれを願っている。自分がされたことを次の世代に持ち込んではいけない。万が一私がやってしまったら、その後輩も自分より下の人に同じことをするだろうから。





じいちゃん…。

地元を歩くたび、ああ、あそこはじいちゃんと昔入った店だとか、遊びに連れていってもらった場所だとか、忘れ物を届けてくれた学校だとか、いろんなことが思い出される。

他にも、じいちゃんは塾まで送り迎えしてくれた。地図帳をプレゼントしたら喜んでくれた。認知症になってからはそばに近寄らなくなって、顔を合わせてもつい怒ったり暴言を吐いたりしてほんと最悪の孫だった。



生前、大好きだったとは言わない。でも、今になってこれだけ思い出が溢れてきて、思い出すたび寂しくなって、涙まで出てくるということは、やっぱり好きだったのだろう。

じいちゃんが生き物として命尽き、動かないただの抜け殻になって、それから真っ白な骨になって、納骨も終わった今、改めて実感する。生命体の本質は、いかに長く生きるかではなく、何を残して死ねるかである。


それが子孫であるが思想であるかは人それぞれだが、じいちゃんはここにネガティブで卑屈でまともに理想も抱けない孤独な孫を残した。

その孫がこれからどうなるかは知らん。パワハラの重圧に負けて露のごとく消えるかもしれない。ただ…もらった時間を無駄にしてはいけないし、できるなら今よりもっと裕福で立派になりたいと思う。




残念ながら私はじいちゃんと同じ墓に入ることはないが、血族というのは不思議なもので、やっぱりどこかしら通ずるところがある。

葬式の前日、ばあちゃんから聞いた話であるが、じいちゃんはあんな顔して変人なくせに博愛主義者で、世の中の誰かのためになりたいと熱心に思っていたらしい。それも人間は動物より高等で完璧な生き物だという考え方を持っており、それだけは私には到底理解できない。


私が(職場の人いわく)なんの役にも立たない民間資格を取ったとき、すでにじいちゃんは病院生活を送っていて報告も何もできなかった。あのとき、じいちゃんにそれを報告できる機会があり、さらに理解できる認知機能が残っていれば喜んでくれただろうか。






…イヤ、聞くまでもない。


こんなズタボロの孫、自慢には思えへんよな。





じいちゃんの葬式のあと、家に持ち帰った遺影とお骨の前から離れられなかった。馬鹿みたいに何時間も何時間も、じいちゃんの遺影を前に黙っていた。

あれから4ヶ月が経ち、ようやく少し冷静になれた気がする。あのとき感じたこと、頭の中で考えたこと、自分が向こうに行くその日まで、けっして忘れてはいけない。



…誤解を恐れずに書けば、あのとき見えたのは、じいちゃんと手を繋いで歩く幼少期の自分だった。あいつを泣かせてはいけない。もっと大切にしなければいけない。

なんかそう聞こえた気がするから、大切にしよう、泣かせないようにしようって思った。自分を大切にするとかあんまり考えたことなかったからな。じいちゃんが本当にそう言ってくれたのかどうか、ただの私の妄想かもしれないが…。





…しかし、私は死後どこの墓に入るのだろうか。

立派な墓はいらないから、ぜひ実家の庭に撒いてほしいと切に願う。

2017年4月 1日 (土)

逆境の中の陽

えー、このたび、ついに職場をクビになりました。


やっぱり態度が悪かったからかな。

新年度早々、新しい仕事を探すことになります。









…というのはエイプリルフールの嘘です。すいません。

まだクビにはなっていません。扱いはひどいけど。あそこを去るときはたぶん自分から辞めていると思う。


最近は「私の優秀さにみんな嫉妬しているんだ」とトンデモなくポジティブに考えるようにしている。人間ってのは不思議な生き物で、バカで何の役にも立たない人より、優秀であるがゆえにプライドを傷付ける人の方が嫌いだったりする。

俗に言う「出る杭は打たれる」。私もひたすらそうでありたい。私が優秀だからみんながいじめてくるんだよねーと。そうでも思わなきゃ変な病気になりそう。






思い返せば去年の6月ごろから逆境に立たされているわけだが、逆境であるがゆえに思い知ったこと、勉強になったことはものすごくある。

たとえば土壇場で自分の味方になってくれる人。これまでは誰が味方かわからなかったが、どんなときでも私の支えになってくれる人たちの存在に気付けた。逆に、どんな状況に置かれても敵は敵だとわかったし、何があろうとコイツには相談しないと心に決めた人もいる。


そこらじゅうの人間が私のことを嫌ったって、本当に大切な奴は自分の味方でいてくれる。それってすごくありがたいことだな。心から感謝したい。

お陰様で人生の「やりたいこと」はたくさん見つかったし、苦しみながら本業を続けて、その裏でシュミとユメの実現に励みたいと思う。




…そういえば今日で朝ドラが終わったが、アレはほんとにキレイなものしか見せないのな。もっとこう、人間の腐った醜い部分とか描くべきだと思う。とにかくいつもハッピーエンドで終わるのが不思議でならない。

大体、4人も女が集まったら絶対どこかで破綻しているはず。親友の旦那と不倫するとか。店の実権を握るため他の3人を陥れるとか。ライバルに「あの子を消しておしまい!」と刺客を送るとか。


私の勝手な思い込みだが、共通の敵や下心、利害の一致がなければ女はあそこまで結託しない。気に食わない新人を連携していじめるとかね。画面に映らないだけで、たぶんどこかにそういう展開があったはず。

純真な主人公がトントン拍子に幸せになる物語なんて現実には存在しない。人間関係というのはもっとドロドロしてこそ真実味がある。サスペンスドラマは減る一方なのにどうして朝ドラはなくならないのだろう。謎だ。






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晩飯のグラタン。(食べかけ)

相変わらずレシピに従わず作るので、ちょっと粉っぽかった。ホワイトソース用の牛乳をケチったせいかもしれない。



今さらだが、ひとり分の飯を作るとどうしても数日続けて同じメニュー(晩飯と翌日の弁当、さらには翌日の晩飯と翌々日の弁当…)になるよね。先日も4日連続で同じ野菜炒め(余り物の寄せ集め)を食した。上手な人はアレンジとか加えて別の料理にするのかな。

量が多くてもつい安いものを買ってしまうので、なんかずっとほうれん草ばっかり食べてる…なんてことがよくある。日によってはじゃがいもばっかり、にんじんばっかり、要するに食材のチョイスとメニューの選び方が下手なのだろうか?





今日のニュースで、世論調査か何かで「社会に満足している人」の割合が過去最高だとか言っていたが、あれこそ本当にエイプリルフールの嘘なんじゃないかと思う。それとも調査対象が公務員・高所得者・資産家に限定されていたのか。

私は今の社会にまるっきり満足していないし、それどころか「私の敵は社会そのものだなぁ」なんて思う日もある。嘘つきの金持ちばっかり得をして、まっとうな貧乏人が損をする社会ってどうなの?


たまには特売の野菜とか買ってみろと思う。ドロドロの土とかザラザラの砂とか普通についてんぞ。下手したら腐ってるときもあるわ。

大切な日用品や食材、電気代やガス代ばっかり値上がりし、給料は上がるどころかむしろ下がっている。本気でいつか社会に殺される気がしてならんのだが。




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ひとりごと

  • 今年初めてふるさと納税をした。どこかの特産品が欲しいとかは特になく、クラウドファンディングの企画があったのでそれにした。自分の生活を鑑みれば米か肉でも返礼品としてもらえばよかったのだろうが、それができないあたり管理人の変なプライドがある。微々たるものだが少しでも地球のためになればいいと思う。
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