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2014年11月15日 (土)

嫌われ者の極意

先日、知り合いの30代男性に興味深い話を聞かされた。

なぜそんな話になったのか忘れたが、「僕は世界じゅうの人々に自分を好いてもらわないと気が済まない人なんだよね」と少々困ったように言われた。この人は世界じゅうの人々に好かれたい、誰からも嫌われたくない、と思ってしまうらしい。

……だが、自分が誰かを嫌いになるのはいいらしい。こっちから嫌うのはいいが、相手から嫌われるのは耐えられない。自分勝手な願望のように思えるが、実はけっこうこういう人はあちこちにいる。この人は自分でわかっているだけましだと思う。




普通に考えて、全世界の人々から好かれることは不可能である。あなたのことを無条件に好いてくれる人がいれば、心の底から大嫌いだという人もいる。それが人というものである。(そう考えると全世界の人々から嫌われることもないはずだよなぁ……?)

だが、それでも全世界の人々から好かれないと気が済まない人がいる。知り合いの男性もどうやらそのうちのひとりである。実際、この人のことを嫌う人はいるのだが、当人を傷付けそうなので内緒にしている。ちなみに私は「そういう目で見たことがない」の一言でスルーしている。




ここでも何度か言っている通り、私は自他ともに認める嫌われ者で、これまでまともに対人関係を築いたことがない。学校や職場で「同級生」もしくは「同僚」が得られることはあるが、その中から仲間外れにされることも日常茶飯事。だが、本人(私)は意外とそれを平気に受け止めている。……知り合いはそれが羨ましいと言っていたんだったか。


これまでの経験からいって、誰かに嫌われることと、仲間外れにされることはたぶん意味が違う。仲間外れにすることはイジメや嫌がらせに近いが、誰かを嫌うことは罪にならない。私やあなた然り、誰でも普通にすることである。

私はたぶん、嫌われ者だから仲間外れにされる。だが、よく考えると奇妙な話である。仲間外れというからには、私には一時なりとも「仲間」がいたわけである。で、その一時的な仲間(?)から半ば強引に外されることを仲間外れという。要するに、私は嫌われ者でありながら一時的な仲間はいる。だが、その中からいとも簡単に外されてしまう……のだろう。
……それはやはり私が嫌われ者だからなのか?



記憶に間違いがなければ、ひどい仲間外れ事件を経験したのは小学生のころ。同じクラスの子たちと催し物の企画を立て、日々練習に励んでいたが、ある日練習場所に行くと「もうメンバーじゃない」といきなり追い出されたことがある。意味不明、理解不能の同級生総勢の決め事だったが、私は「はぁ」とだけ言って練習場所を出た。正直、頭が混乱して何か言うどころじゃなかった。

練習が下手だったとか、存在がウザかったとか、そういう理由があるならともかく、なぜ私が同級生総勢から仲間外れを受けなければならなかったのか、いまだに理由はわかっていない。そういえば「リーダー格の女子が好きな男子の気を引くために行なった」?という謎の説も浮上していたが、その男子が私のことを好いているとでも妄想していたのだろうか?

……まぁ、単純なイジメだったのかもしれない。この場合は担任教師に「なんで練習に参加しないの?」と訊かれて事件が発覚した。だが、それでも同級生からはハミゴされる(むしろ先生に告げ口したことで悪化した)し、親からは「売られた喧嘩は買ってこい!」となぜか私が怒られるし……。私の嫌われ者人生はここから始まっているといっても過言ではないと思う。



いくら嫌われようとも、はみ出し者にされようとも、本人に理由がわからないのは当然である。私を嫌うのも、私を仲間外れにするのも、所詮は他人がすることである。自分を嫌ってもらいたくて他人に近付く人はいないし、仲間外れにされたいがために誰かと仲良くする奇特な人はいない。いるとすれば……ものすごくドMな人とか。

私も自分では本当に理由がわからないので、「そういうものなのでしょう」で済ますしかない。これがただの妄想ならともかく、実際にいろんな人に嫌われ、仲間外れにされているんだから、理由はきっとどこかにある……のだろう、たぶん。
小学生時代の仲間外れ事件があってから、私は心のどこかで「そうか、自分はこういうことをされる人間なんだ」となんとなく理解した。「どうしてこんなことをされるの?」と思えたら、人並みには悲しんだり悩んだりできたのだろう。だが、私はそういう人間なんだと妙に納得してしまい、泣いたり悲しんだりした記憶はまるでない。担任教師にも「練習に行ったらもうメンバーじゃないと言われたんですけど」とありのまま伝えただけである。


……書いていて思ったが、仲間外れにされるポイントはこういうところかなぁという気もする。私には人並みの感情がないというか、どれだけ馬鹿にされようがイジメられようが、けっこう平然と構えているところがある。なので、周りに「何をしても許される人」に見えているのではないかと思う。おそらく、都合が悪くなったとき仲間から外してもいい人の第一候補に名が挙がっているのだろう。何をされても平然としていられるから。

だが、私だって人間だし、(時には)悲しんだり、他人を恨んで呪詛することもある。腹立つ奴は身を裂かれるような苦痛を感じながら悲惨な死に方をすればいいと思う。私は誰にも見えないところで強烈な憎しみを他人に向けているだけである。




そういえば先日も、飲み会を企画するから予定を教えてくれと言われ、教えたのだがまったく音沙汰がなく、あとで聞いたところによると私以外の人々ですでに飲み会を終えたらしい。途中から仲間外れにするなら最初から聞かなければいいと思うのだが……。私の予定と日が合わなくなったとか、人数が多すぎたとか、そういう理由があったとしても連絡ぐらいしないか、普通? 私がワガママなのか? 私の認識が間違っているのか? ちょっと最近いろんなことがわからなくなってきた……。



こういう連中を相手にする場合、いちいち感情を揺り動かさないのが一番である。簡単に悲しんだり、涙を流したりなんかしたら自分が悔しいだけ。なぜあんな奴らのために私が悲しまなきゃいけないの?と思うと、相手の卑劣な言動にいちいち反応することさえも馬鹿らしくなる。クソみたいな連中にはせいぜいアホなことをやらせとけばいいのである。ああいう連中は、私という人間を相手にどんどん自分の価値を下げていることに気付いていない。

あの連中の言動は私にとってはそこらの動物が下品な芸をしているようなもの。その芸はあまりにも見るに堪えないが、いちいち反応しなければ場が白けるだけで終わる。そんなことを平気でする連中に「自分のことを好いてもらおう」なんて思うはずがない。好いてもらわなくて結構である。





常に周りの人々の顔色を窺い、ご機嫌を取って、自分の人生の目的が「全世界の人々から好かれること」では寂しすぎる。そんなどこにでもいるような取るに足らない人間より、嫌われ者を個性の一側面として人々の記憶に残る方がいい。人々の記憶に「なんだか親切な人」程度でぼんやり残るぐらいなら、いつか「そういえばあんな嫌われ者がいたなぁ」と思い出してもらえるだけで嬉しいのである。


他人に迷惑をかけない程度であれば、「どうぞ嫌ってください」とプラカードを掲げ、自分らしくやりたいことをやった方が得だと思う。他人に好いてもらうために自分を殺すのはあまりにももったいない。自分のことを嫌いだとか苦手だとかはっきり言ってくれる人の方が意外と信頼できたりする。嫌いなのを隠して好きだと言ってくる人の方が信用できない。

それに、知り合いの30代男性よ、自分よりクソみたいな人間にまで好かれてどうする? 私のことはとりあえず例外として、君のことを無条件に好いてくれる人は間違いなく存在する。その一部の人に好かれたらもう最高ではないか。それ以上に何を望むというのか。無条件に好いてくれる人がいれば、無条件に自分を嫌う人間も同じだけいる。そもそも何も悪いことをしていないのに仲間外れにしてくるような連中とは付き合わないのが一番だし、いちいち怒ったり悲しんだりするのも相手を喜ばせるだけなのでやらない方がいい。






私が誰かを想うほどに、誰かは私のことを想ってはくれない。そのことはもう遥か昔に痛感したし、今さら無理な相談であることも承知している。だけど、それでも期待してしまう。自分が想うほどに誰かが私のことを想ってくれないだろうか……と。

また、誰かを幸せにすることは簡単だが、自分を幸せにすることはとてつもなく難しい。ただ、私は他人が嫌うほどに自分のことを嫌いにはなれない。自分はそんなに嫌な人間だろうか?と戸惑うことはあるが、他人の評価を素直に捉えて自分を嫌いになることはない。私は自分のことが好きでも嫌いでもない。それこそ「そういう目で見たことがない」。みんなが嫌うからには嫌な人間なのかとは思うけど、だからといって仲間外れにされて当然とは思わない。


そもそも自分から人付き合いを避けているところもあるし。他人が絶対に悪いわけじゃない。だが、自分が絶対に悪いわけでもない。自分は小さいころから特殊な人間で、並みの人に正しく理解されないだけだと思っている。……「並みの人」を「クソみたいな人間」と心から馬鹿にすることはあるのだが。





次に会ったとき、そういう話を悩み多き30代男性にしてやるとするか。

最近なぜか年上の男性から人生相談をされることが多い。私なんぞに相談を持ちかけても仕方ないと思うけどな。先日、「(私は)聞き上手だが話を全然聞いていない」と言われ、自分では褒め言葉と受け取っている。適度に相槌を入れて話を深めるのはうまいが、せっかく相手から引き出した話を右から左に聞き流しているらしい。……やっぱり職業柄だろうか。



なんにせよ、自分の価値を決めるのは他人ではなく自分である。私のことを「強い人」と言う人がいるが、実際はただの経験値の差である。誰だって私がこれまで歩んできた嫌われ者人生を経験すれば、若干20代でそれぐらい悟るようになるよ。いや、そうならずにはいられなかったというべきか。私にも昔は「誰かに好かれたい欲」があったと思われるが、うまくいかなかった。で、いつの間にか嫌われ者としてでしか他人と関われなくなったのだろう。そんな感じがする。



今となっては、嫌われ者人生を自分でわざわざ選択している気もする。ある程度の時期を過ぎるといろんな人の嫌われ者でいることが楽しくなってくる。時と場合にもよるが、誰かに好かれるより嫌われる方が難しかったりするし。


今の生き方は孤独だけど、楽しんでいるところもある。
それが正直なところです。
(そうでなければこんな自慢げには書いていないでしょう)



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コメント

またおじゃましました。

この文章を拝読していて、全体に共感するところが多かったですよ。
好き・嫌いはともかく、世の中、人の世というのは、「そういうこと」だと感じます。
「皆で仲良く」なんてね、そりゃできればいいでしょうけど、「嫌なこと、嫌いなこと、触れたくないこともいっぱいあるけど、それはともかく、諍いなく過ごしましょうや」ぐらいの意味に解釈すれば、なるほど、それが人の世、そんなふうに思うのです。

あなたのような若い方が、これほどまでに言葉を紡いで語るのを素晴らしいことだと思います。
今は、あなたご自身をどこか否定的に、諦観を持って捉えているようですが、でも、その一方で、そのことに安住もしていますよね。

「へ、私なんか・・・」というような(失礼ながら)ヒガミのような感情があるとすれば、それはそれで若さゆえに十分に許されることです。

そして、全体に、あなたのような人は仏の道にふさわしいようにも思います。何も出家しろとは言っていません。
以前、とある宗教家の方と話をしていて、その方は酒もタバコもやる、緩いように見える方でしたが、話せば話すほど、敬意を持たざるを得ない、信頼できると思える方でした。

それは、「自分は自分、あなたはあなた」。一見、冷たいように見えて、結局はそれが真実。つまり、最大限に他者(と自分との違い)を認識し受け入れなければ到達しえないところなのです。

組織の中で仕事をしていると、そういう「仏のような(笑)」姿勢を貫くのは、若年であればなおさら、非常に難しいときが多いです。
たいがい、「変わった人」とレッテルを貼られるものです。
私もそうでした。
ところが、まあ、ある種の実力が認められるところとなれば、「あの人はできる、なぜなら変わっているから」となるから不思議です。そう、自分は何も変化していないのに、評価のほうが勝手に変化していきます。

そうなるまでは鬱陶しいですが、それでも自分を変えることというのはそう簡単にはできません。せいぜい規則を破らない、他者を傷つけるほどの付き合いをしない、ぐらいを気をつけて過ごすしかありません。

私は、鎌倉以降の既成宗教の動きが、どうにも気持ち悪くていけません。
真言宗の諍いなんか、アホらしくて・・・。いや、中の人々の真剣な営みを否定するわけじゃないんですけどね。

そんなとき、平山郁夫氏のガンダーラ行の紀行本を読み、太古の仏教というものを私なりに感じ取ろうと努めます。
現代の暮らしにどれだけ有用かなんていう視点じゃなく、もっと根源的な、生き物としての人間について、何か示唆を得られたらいいなと。
言語的なものは無理ですが、しかし、仏教の生まれた地を歩み、それを絵画で表した平山氏の作品に触れていると、改めて、諍いのないところにいたい、という気持ちが強まりますし、今どきの「スルー」という行動を、肯定的に捉えることができます。

ああ、長くなっちゃいました。

要するに、お若いのにそこまで感じて、しかもそれをこうして言語化なさっていて本当に素晴らしい、ということを言いたかったのです。

あなたは大丈夫。

50歳のおばちゃんより。

ひがみっぽい記事にいつも元気が出るコメントをいただきましてありがとうございます。

実のところ、自分でも「変に悟っている」感はしていました。煩悩がないというか、欲しいものがあるくせに自分から手に入れにいかないというか……。他人と違っているところを評価されたらそれほど光栄なことはないのですが、やはりその域に達するのは難しいですね。それでもひがみっぽい自分の状況を楽しんでいるところは明らかにあります(笑)

今まで宗教などまるで興味なかったですが、自分自身を理解するために勉強するのも楽しそうですね。「生き物としての人間」という考え方は私も好きです。ついつい「その行動は生き物としてどうか?」って考えちゃいます。私も機会があれば勉強してみようかな……。

助言というか元気が出るコメントありがとうございます。明日からも頑張っていけそうです(^^ゞ

香菜子と言います。わたしも小さなころから人間関係がつくるのが苦手で嫌われたり仲間外れにされたりするのが多いです。周りからは自信過剰で自意識過剰、上から目線の上から香菜子、傲慢高飛車の傲慢香菜子、自慢香菜子、と悪口を言われて嫌われたり仲間外れにされたことがあり、そのことに対して反論したら無視されるようになった辛い経験があります。今でもその時のことを思い出して悔しくなりますが、最近は無理に好かれなくても大丈夫と自分に言い聞かせています。香菜子

はじめまして。コメントありがとうございます。

2年前の記事ですが、現在職場でパワハラまがいの仕打ちを受けていることを考えると、「やっぱり嫌われ者じゃん…」と思わざるをえないですね(+_+)
しかし、最近は『嫌われる勇気』という本が出るぐらいだし、他人に嫌われるのも一種の才能だと(私は)思っています。ただ、ちょっとした嫌がらせからハラスメントに変わることもあるわけで、そういうのは本当にやめてほしいです。

お前ら全員地獄に落ちろ!と何度願っても落ちてくれない。世の中ってホント理不尽ですね。

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  • 今年初めてふるさと納税をした。どこかの特産品が欲しいとかは特になく、クラウドファンディングの企画があったのでそれにした。自分の生活を鑑みれば米か肉でも返礼品としてもらえばよかったのだろうが、それができないあたり管理人の変なプライドがある。微々たるものだが少しでも地球のためになればいいと思う。
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